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最終夜・前編



  生きたい、と思った。



   最終夜・前編


 ふと思い付いたように、竜血樹はポケットをゴソゴソと調べ始めた。何を取り出すのかと思ったら、小さな安物のライターだった。
 鈴華が首を傾げた。「どうしたの?」
 「写真、燃やそうと思って。」さらりと彼は答えた。だが、その場の全員がぎょっとする。
 「燃やすって、何で。」大花が急き込むように尋ねた。竜血樹はちらりと一瞥する。何かを覚悟したような眼だった。
 静かな声で彼は言った。「言っただろ?俺はこいつを死なせたくない。」
 小魚が怪訝そうな顔をして尋ねた。「だからって、どうして写真を燃やすことに結び付くんだ?縁起でもないことを。」
 竜血樹は咽喉を軽く鳴らして笑った。「確かに、縁起でもない真似だな。」そして、軽く目を閉じて額に彼女の写真を当てた。「こうするしかないんだ。こいつの腹には俺の子がいる。俺と交際していた女ってだけでも政府には目を付けられかねないのに、それで妊娠までってバレたら、絶対に殺される。それだけは避けたいから、せめて俺から彼女に繋がるものは、全て処分しようと思ったってだけだ。幸い思い当たるのは、この写真一枚だし。」
 「それ一枚だったら、持っていたって構わないじゃない!」大花が激しく抗議した。それを見て、竜血樹は静かに首を横に振る。
 「これ一枚だから、致命傷になりかねないんだ。もしも俺が死んで、この写真が政府の手に渡ったらどうなる。特に、俺は最大級の要注意人物だろ?」
 「自分が死んでも生き残ってもらいたいって言うの。殊勝じゃない。」寛美は、自分でも嫌気がさすほど皮肉な口調で言った。竜血樹が悲しそうに笑ったので、更に自分に嫌気がさした。
 竜血樹は、もう一度だけ写真を見詰めた。暗い色の瞳の奥にある網膜に、彼女の笑顔を焼き付けるように。そして、カチリと音を立てて、ライターに火を着けた。ぽう、と赤い炎が上がった。
 「あ。」鈴華は思わず声を上げた。写真の片隅に着いた火は、あっという間に広がって行った。炎は、ライターの上よりもずっと鮮やかな色をしていた。
 竜血樹は優しく炎に包まれてゆく女の――彼がおそらく生涯で唯一人愛することの許された女の――笑顔をずっと見詰めていた。写真を燃やした炎が自分の指を焦がすまで、ひたすらに、一途に。
 ぼんやりと寛美はその姿を見ていた。駄目じゃない、早く手を離しなさい、火傷するわよ。心の中で自分ではない誰かが叫んでいたが、言葉にするのが億劫だった。目の前で、写真は黒く変色し崩れていった。
 何もなくなった掌の中を眺めて、ようやく竜血樹は自分の右手の人差し指に黒い煤が付いていることに気付いた。しばらく彼は無関心そうにそれを眺めていたが、おもむろに指先をぺろりと舐めた。煤が落ちると、その白い指の先はやはり赤くなっていた。軽い火傷だろう。
 そのとき何を思ったのか、おそらく当の寛美にもわからないだろう。ただ、竜血樹の目の前に立っていた彼女は突然爪先立つと、放心したような彼の手首を乱暴に握り、自分の前に引き寄せた。そして。
 その柔らかい紅い唇に、竜血樹の人差し指を含んだのだ。


 美妃がはっと我に帰ると、思い切り悲鳴を上げていた。怖かった。何もかもが怖かった。知らずにすすり泣いている自分がいた。
 目の前で、三人の男子が各々の武器を構えている。高 哲山(コ・チォルサン)らの一味だと思うが、逆光でよく見えない。第一、自分を殺そうとする連中の名前などどうでもよかった。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。いつものように学校に登校したら、突然こんなところに連れて来られた。散々怖い目にあわされた上、こんな死に方をするなんて。どこで歯車が食い違ってしまったのだろう。どうしたらいつもの平和な生活に戻れるのだろう。何をしたら全てが修復できるのだろう。
 川を覗き込み、川面に浮いた大量の血液を見た。美妃にはその血痕が、今まで信じて来たもの全てが崩壊した、その亀裂から噴き出しているように見えた。
 悲しかった。
 三人と対峙していた日白は、一番手前の誰かがマシンガンを構え直すのに気付いた。だがそれに気付けても、ほんの一瞬しか時間はない。出来ることは余りにも少ない。
 チャ
 日白は三人から見て、ちょうど美妃を遮る位置に立った。そして、腕を広げた。そんなもので彼女を守れるなんて、冷静な彼はこれっぽっちも思ってはいない。だが、せめて気休めでもいい。言葉にするのは苦手だから、彼女の想いには出来る行為で応えたかった。そんなことしか出来ない自分が。
 哀しかった。
 逆光の中で、マシンガンを構えた奴がたじろいだように見えた。どうしてだろうと日白は考えたが、思い当たる節はない。大きく息を吐き俯くと、ぽつ、と地面に水滴が落ちた。
 そのとき、動揺するマシンガンの奴を押し退けて猟銃を下げた男が前に出て来た。そして軽々と銃を持ち上げ、照準を合わせている。
 泣いたのは何年振りだろう、と日白は思った。こんな最期を遂げるなんて、思っても見なかったと思いながら、銃口の中に鎮座する闇を見詰めていた。意外なことだが、あまり悪い気はしなかった。
 パァン
 はっとして美妃が振り向くと、そこに日白が立っていた。どうしたのだろう、と泣き腫らした目で見詰めていると、その姿が傾いで、自分の側に加速的に倒れて来た。慌てて彼の肩を支えるが、日白は美妃にもたれるようにしたまま崩れ込んでしまった。
 「尹くん、どうしたの?尹くん?」擦れた声で美妃は尋ねた。だが、返事はない。既に肺を押し潰していた不安が、心臓までも冷たくしている気がした。「尹くん、どうしたの!返事してよ、ねえ尹くんってば!!」
 大柄な体を揺すりながら、美妃は叫んだ。嫌だった。何もかもが嫌だった。信じたくなかった、信じられなかった。
 悲しかった。哀しかった。
 「いやぁぁぁぁぁ!!!!!!!」
 パァン
 美妃の絶叫を遮るように、銃声が斜陽の中で鳴り響いた。

 明道は、半ば水に沈んだ状態で、美妃が落ちて来るのを見ていた。何が何だかさっぱりわからなかった。ただ、水に漬かっている方が寒さを感じないですむし、服が体に貼りつく感じもなくて、案外居心地がよかった。隣では斗男がうつ伏せになって浮かんでいたし、英子は既に水の底だった。
 だから、美妃が落ちた先が川面ではなくてその脇の土手だったとき、思わず『可哀想に』と思った。水の中はこんなに気持ちがいいのに、張さんは可哀想だ、と。
 こっちに来させてあげよう、と思い付くまで、意外なほどに時間が掛かった。だが、思い付くや否や、力の入らない腕を伸ばした。もう少しで、彼女の二の腕に届く。美妃が手を伸ばしてくれたらすぐだと思ったが、おそらく彼女はもう身動き一つ取れないのだろう。うつ伏せに倒れた彼女の下から、たらたらと鮮血が流れ出して、川に溶けていた。
 だから、と明道は考えた。俺がその分動けばいい。あんな硬いところではなくて、柔らかい穏やかな水の中に俺が連れて来てあげればいい。
 反対側の腕で水を掻いて、ようやく美妃に手が届いた。明道はほっとした。そして腕に身体中の力を込めて、美妃を引いた。
 激しい水飛沫が上がった。
 日白の亡骸が落とされた為の飛沫だとは明道はわからなかったが、川底に沈みながら美妃が川面に浮いているのを見て、よかったと思った。
 水は、優しくて気持ちよかった。


 寛美は俯くようにして、竜血樹の人差し指を唇に含んだ。本人は自分の行為が何を意味するのかほとんどわからなかったが、見ている三人は思わずうろたえた。大花が何か言おうとしたが、何も言えずに代わりに口をもごもごとさせる。
 寛美は、竜血樹の火傷跡を舐めた。束ねるタイミングをなくして下ろされたままの長い髪が、さらさらと頬からこぼれた。火で炙られてじわっと湿った彼の指は、苦くて涙の味に似ていた。炎の名残か、元々の体温かはわからないが、竜血樹の指は熱かった。自分の掌に収めた彼の手は、白くて優雅な外見からは信じられないくらい、固かった。
 名残惜しげに指に絡めた舌を離すと、寛美はそのまま唇を這わせて竜血樹の手の甲に押し当てた。そしてそのまま膝を付いた。紺色のスカートの裾が芝生の上に広がる。
 竜血樹は、無下に振り払いはしなかった。ただ黙って、何かを待つような眼差しを寛美に注いでいた。
 ようやく寛美は、竜血樹の掌から唇を離した。名残惜しそうな目を一瞬だけ見せたが、顔を起こしたときにはいつもの彼女に完全に戻っていた。
 小魚が真っ赤になって言った。「・・・カ、カンメイ?」
 だがそれは、完全に寛美に無視された。救いを求めるような目を鈴華に向けたが、彼女の方も負けず劣らず真っ赤だった。さすがに、大花に助けを求めるほど彼も無謀ではなかった。
 寛美は竜血樹を見上げてにやっと笑った。「いいこと思い出したの。」
 竜血樹が不穏そうに眉を曲げたが、寛美は続けた。「あたしの父親、電子工事屋なの。それからあたし今・・・。」
 背負っていたバッグから、彼女は布製の眼鏡ケースを取り出した。カチッと金具を開けると、中には銀縁の華奢な眼鏡と細いペンのような物が入っていた。それを見て、竜血樹が表情を動かす。寛美は眼鏡を掛けて、ペンのような物を取り出した。「こーんな物、持ってたんだよね。」
 「それは凄い。」ようやく竜血樹は表情を緩めた。笑おうとしたらしいが、引き攣った笑みになっていた。「実は俺、設計なら少しわかるんだ。」
 「好都合。」寛美は眼鏡越しの目を細めた。蠱惑的という言葉がぴったりとくる表情だった。それを見ながら、じれったそうに大花が叫んだ。「何なのよ!はっきり言いなさいよ!!」
 竜血樹は、何かメモを広げながら大花達に黙るようにジェスチャーをした。そこで鈴華がはっと何かに気付き、唐突に口を開いた。「・・・でも、本当にあたし達、生きてここを出られるのかな。」
 「何を言い出すのよ、急に。」大花は不機嫌に言った。何かを訴えるような鈴華の視線に先に気付いたのは、小魚の方だった。「大丈夫だよ、きっと何とかなるって。弱気なこと言うんじゃないよ。」
 「だってぇ・・・。」鈴華は弱気そうにそう言ったが、目をちらちらと大花に向ける。大花は怪訝そうに首を傾げた。小魚に目をやると、彼はちょっと笑って見せて、更に言葉を重ねた。「そんなこと言ってたら、俺の方も不安になるじゃないか。フェイロン・・・じゃなくて竜血樹って呼んだ方がいいのか、本当に何か策があるのか?」
 「・・・だからそれを今考えてるんだよ。」何か手早く書き込んでいるメモを寛美に見せながら、いかにも弱り果てたように竜血樹は言った。表情と声音が恐ろしく一致していない。頷き、髪を手早く大きなシニヨンに結い上げながらメモを見ていた寛美は、ぱっと明るい顔になる。そして、それを隠すような口調で言った。「機械工学の宿題なんか、今更やっても仕方がないのはわかってるんだけどね。生き残れたらって、望みを捨てないのは大事だと思うの。あ、そのモーターの図面わかりにくいわよ。」
 「そうか?」そのメモの隅に竜血樹は手早く文字を綴った。何かに彫り込んだような、角張った鋭い字だった。
 『もうじき勝負の蹴りが付く。監視が油断する、そのタイミングで逃げる。』
 ようやく大花は状況が飲み込めた。そして、うきうきとする気持ちを何とか抑えながら言う。「何よ!宿題なんかやってる場合じゃないでしょう!!」


 息が切れていることも玉環は感じなかった。とにかく一刻も早く公園に帰って、誰かを呼んで、塀跳を助けてもらいたかった。血が沢山出ていたけど、公園に帰ったら誰かが助けてくれるかもしれない。きっと必ず助けてくれる。そう信じて彼女は走り続けた。
 ようやく公園の入り口が見えて来た。だが、誰も見張りに立っていない。奇妙に感じはしたが、それ以上に、もっと中まで行かなくてはならない、急いでいるのにタイムロスは痛い、ということの方が先立った。
 転がり込むように公園に跳び込み、更に奥へ突っ切って本部を目指したが、人の話し声がしない。急に不安に駆られて、重くて動かなくなりそうな足を酷使して速度を上げた。
 本部には誰もいなかった。
 怖くなって、それでも足を止めずに誰かの姿を探し回った。治療場の方には、他の水場の方には、誰かいるかと期待を込めて走ったが、誰もいなかった。同じコースを三回通り巡って、ようやく誰もいなくなったのだと理解した。
 本部、いや『元本部』の枯れた芝生の上に玉環はへたり込んだ。誰もいなくなってしまった。玉環の留守中に、皆いなくなってしまった。先に行ってしまった。もうどこにいるのかわからない。玉環一人が取り残されてしまった。
 「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ・・・・・・・・・・。」
 ぼろぼろになった身体を抱えて、玉環はむせび泣いた。涙がどうしようもなく溢れて来た。残された悲しみに、遺された哀しみに、あてがえるものは何もなかった。裏切られた、と思った。仲間と信じた人達に、幼馴染みに、自分自身に。
 だから、背後から聞こえたカサリ、という音もほとんど彼女には意味を為さなかった。敵でしかないはずなのに、ただ、振り向いてみただけだった。逃げようという、生きる為の欲求が枯れ果てていた。
 そこに立っていたのは、江葉だった。小柄な彼女が、今は自分を見下ろしていた。そして江葉は血塗れで、手には不釣合いに大き過ぎるショットガンを、腰には太いナイフを構えていた。死神のような彼女の無表情が、今の玉環には慈愛の菩薩のアルカイック・スマイルに見えた。
 一瞬、江葉の姿越しにあの日の歪んだハングル文字が見えた。
 縋り付くようにふらふらと玉環は言った。「殺して。」
 江葉は身動ぎ一つしないで、玉環の見開いた目を見ていた。氷のように青い瞳が、玉環の怯えた心に心地よかった。「お願い、殺して。お願い。」
 静かに江葉は、腰帯に捻じ込んだナイフを取り出した。そしてちょっとだけ刃を検分して、すっと顔の前にそれを構えた。赤い染みのついたナイフに、江葉の銀色の横髪が映り込んだのが、綺麗だった。
 玉環は、涙でぐちゃぐちゃの顔で、思い切り笑った。引き攣ったが、ちゃんと笑えた。
 何故か、嬉しいと、思った。

 「エバ。」ナイフを拭って腰帯に収めていると、江葉の背後から耳に馴染んだ声がした。振り向くまでもなく、誰なのかはわかる。彼女の人生の中で、紛れもなくもっとも長い時間を共有して来た相手なのだから。江葉――エバは、異国の言葉で答えた。「ダワ、何?」
 すっと間合いを詰めながら、彼女は答えた。やはり、この国の言葉(ハングル)とは異なる言語だった。その代わりに、いつもの訛が綺麗に消えてなくなっていた。「怪我はない?エバだから大丈夫だと思うが。」
 「エバにはない。」無表情にエバは言った。片言のハングルのときと全く変わらない素っ気無さだった。そしてそのまま、ちょっとだけ目の前に倒れている玉環の亡骸に目をやった。傷だらけの身体だった。
 ダワは、そっとエバの肩に手を触れた。黒い皮のグローブの固い感触が血で濡れた服越しに優しく感じられた。「悲しかった?」
 エバは静かに振り向いた。溢れそうな碧い瞳で、姉の端正な面を見上げた。いつもと同じ、凍ったように表情を変えない女だ、とエバは思い、自分に言う筋合いのないことも同時に思い出した。エバの無表情は生まれ付きだが、ダワの顔から表情が無くなったのは、あまり遠い過去ではないと思う。いや、そう思うだけで実際にはもう遠い過去の話かもしれない。ただ単に、エバが忘れ去ることが出来ないだけかもしれない。
 ――どんな手を使ってでも、復讐してやる――
 エバは首を横に振って言った。「悲しくは、ない。」

 エバとダワは、同時に物音に気付いた。そして、同時に互いから飛び退るようにして離れる。一瞬遅れて、背後から点線のように銃弾が飛んで来た。
 カタカタカタ
 マシンガンの音だった。エバに弾は掠りすらしなかった。ダワならばなおさらだろう。振り向いてエバはショットガンを構えた。見えるのは植え込みの低木だけだったが、たかがこの至近距離では彼女にとって無いに等しい。
 ガン
 引き金に力を込めると、植え込みの常緑葉が激しく散った。「うわ!」と言う悲鳴と共に、木の間からボウガンの矢が狙いも定めず飛んで来た。
 エバの隣に、さっき離れたダワが再び飛ぶように戻って来た。黒いグローブの手で奇妙な指の形を示す。(向こうは三人。今ので一人減ってこちらとタイ。)彼女の指はそう示していた。
 エバは腰のナイフを抜いて、ダワに手早く渡した。躊躇いもせずダワは受け取った。そして、エバと一瞬目を合わせた。姉は小さく頷いたように見える。
 ダワが一歩踏み出すと同時に、エバが公園の出口に向かって駆け出した。


 隣では双子が懸命に、何か下らないことを話し込んでいる。盗聴されても怪しまれないような、どうでもいい話題を続けている。時折それが途切れかけ、竜血樹が器用に口を挟む。その状態がもう長いこと続けられていた。
 竜血樹の手早く書いたメモによると、どうやらこの盗聴機兼逃走予防装置は、寛美が踏んでいたよりもかなり単純な仕掛けになっているようだ。比較的解体は簡単だろう。
 だが問題は、盗聴機に異変を与えてしまってはならないという点である。盗聴機に何かあれば、直通でこのゲームを『監視』しているであろう政府の役人に何事か気付かれてしまう。そうなると、おそらく後の四人の送電装置にスイッチが入ることだろう。今まで相当にまずい話題を交わしてきたが、それと逃亡の成功の如何は直通する事柄ではなかった。だから、ここにいる全員は無事で済んだ。だが、このゲームの本来の目的――すなわち『虐殺』から彼等が逃れる術を見つけてしまったと知れたら、即急に始末されることだろう。
 まずは、自分の装置を実験に使うことにした。幾ら単純な仕掛けと言っても、国家を敵に回している訳である、緊張しないはずがない。この場合、絶対に失敗できない。だから、寛美は自分の命を賭けてみることにした。
 眼鏡修理用のキーホルダー型ドライバーで、カバーを開けた。外にはみ出していた導線と中で繋がれた小さな機械を、注意深く解体する。音の入り方に不審を抱かれないよう、念の為に竜血樹が寛美と三人の間に立った。
 自分の胸に付いている物を解体するのは難儀したが、それでも最後に放電部を外して爪で切り取ったときは思わずほっとした。もう一度、ばれないようにカバーを軽く付け直す。
 目の前の竜血樹の肩口を引っ張ると、彼は少し振り向いて、三人の誰かを手招いた。やって来たのは大花だった。彼女は何か物言いたげに寛美を見たが、すぐにドライバーを当てられて静かになった。今度は、さっきの半分近い時間で解体することが出来た。
 三人目は、譲り合った挙句小魚が来た。大花と違って彼は少し腰を落としてくれたので、随分操作がやり易かった。盗聴機の導線に小指が引っ掛かってちぎりそうになってしまい冷や汗を流したが、何とかこれも解体にこぎ着けた。
 その次は鈴華だった。何か話し掛けようとした彼女の口に、寛美は指を当てて作業を続ける。その時だった。
 銃声が、聞こえた。
 銃声そのものには既に耳が馴染んでいたが、ここまで近い距離からのは随分久しい。鈴華がびくりと身を縮めたので、慌てて寛美はドライバーを離す。双子が向こうで身構えるのが見えた。竜血樹もまた長身を僅かに強張らせたが、一瞬寛美と鈴華の方を振り向いた。少しだけ微笑んで、頷いていた。茫然とした寛美だったが、すぐさま気を取り直して絡んだ導線を指先で解く。
 そわそわする鈴華の気持ちもわからないではなかったが、苛立ち始めた寛美は、思わず怒鳴りつけそうになる自分の感情を、抑え付けなければならなかった。竜血樹がまだ動いていないのは救いだったが、双子は既に得物を構えている。焦れば焦るほど作業が進まないのは、頭ではわかっているのだが。
 (Mr.リューはまだなのに。)汗ばんだ手指で、辛うじて鈴華の機械を解除した。後一つ。竜血樹の心臓に付き付けられた凶器が残されているのみである。


 パン、パン
 パン
 カタカタカタ
 パン、パン
 音から逃れるように、エバは全力で走った。だが、決して彼女は逃げている訳ではない。ただ、公園を舞台にするのが少し不利だと感じた為である。
 土の上で争うのは苦手だった。故郷にそのまま伝わってしまう気がする。
 樹木の隣で醜態を晒すのは嫌だった。黙って軽蔑されている気がする。
 エバが駆け込んだ先は、今はしんと静まり返った繁華街の跡だった。かつて、人の醜さを改めて突き付けられた場所に似ている。こういう場所に来ると、誰かを躊躇いなく憎むことが出来るようになる。
 躊躇わないのは強さだと、知った。
 生きたい、と思った。生きて、生き延びて、絶対に復讐してやりたい、と。その為なら、幾ら殺しても構わなかった。
 パン
 顔のすぐ脇を、銃弾が掠めて行くのを感じた。身を屈めてやり過ごしながら、目は一瞬で自分の陣地を探し出した。薄闇の立ち込め始めたあの路地には、商店が立ち並んでいる。そこに潜めば、勝機はこちらのものだ。
 ダワは、エバが絶対に追い付かれることのないように足止めを掛けている。得物はナイフ一本で多少の不安は残ったが、追い掛けて来る足音は三人分。敵二人とダワ一人、幸か不幸か三人とも無事なようだ。
 カタカタカタカタカタカタ
 マシンガンの弾が一本の線を描きながら追い掛けて来る。身体を斜めに傾けて、エバは物陰を盾にしながら走った。真横から彼女のか細い身体を抉ろうとするように鉛の点線は近付いて来るが、上手く交わされて掠りすらしない。
 男の小さな叫び声がして、弾の行列が途切れた。おそらくダワが不意打ちを掛けたのだろう。エバと追っ手との間の距離が開く。
 小型の商店の間にエバは滑り込んだ。細い路地は小柄な彼女の行動を阻む物ではなかったが、普通の男子高校生の体格なら、まず自由に動ける代物ではない。その奥に、都市の裏側に有りがちな鉄筋三階建てのアパートを見付けていた。ベランダ状になった廊下の高階に行けば、決戦を相当有利に進めることが出来る。
 だが、路地を抜け切った瞬間、エバは反射的に硬直した。立ち竦んだ彼女の鼻先を掠めるように、壁の途切れた右側から一本の矢が飛んで来て、左側に続くアパートのブロック塀に突き立った。エバは矢の飛んで来た方向に顔を向ける。
 先回りをされていた。おそらく何本か前のやや太い路地から彼等は入り込んでいたのだろう、遠くで二人が小さく並んでいる。表情は見えないが、おそらく獲物を追い詰めたという功名心に酔い痴れているのだろう。あえて悠然と構えようと試みているように見える。だが。
 ダワの姿が見えなかった。
 思わずエバは壁に沿って飛び出した。逆走するのは嫌だったからショットガンを引き寄せて、危険を承知で敵の正面に躍り出していた。
 ガン
 ろくに目標を引き絞ることが出来なかったので、二人は多少よろめいただけだった。彼らが我に帰る前にもう一発撃ち込もうとして、エバは気付いた。
 カートリッジが切れた。
 同時に、敵のクロスボウから矢が飛んで来た。一瞬反応が遅れたエバは、塀に太い矢で服の袖を縫い付けられた。鈍い音がして、矢は塀に食い込んだ。
 エバは不覚にも、腕のショットガンを取り落とした。ガツン、と硬い音が響く。二人組の片方が、もう一人に自分の持っていたクロスボウと肩に掛けていた猟銃を渡し、代わりにマシンガンを受け取った。そして、顔の前で照準を合わせる。
 薄暗い裏通りで、その銃口はまっすぐにエバを見詰めていた。
 奴は、笑っているようだった。追い詰められた獲物にとどめを刺すときの猟師は、あんな顔をしているのだろうか。
 エバの碧眼は、奴の指が引き金に掛けられるのもしっかりと見ることが出来た。薄暗い路地の中で、その黒い指に力が込められる――。
 その瞬間、エバの目の前は漆黒の闇に包まれた。


 ポーンピーンポーンポォーン!
 聞き覚えのある音が響いた。今度は五人とも一斉に耳を傾ける。
 『会場内にいる二年C組の生徒に連絡します。』あの声だった。息を詰めて、皆耳をそばだてる。竜血樹だけがやはりさっきのメモを取り出した。
 『正午から午後五時現在までの落伍者を連絡いたします。』その言葉で初めて寛美は、もうそんな時間になっていたということに気が付いた。道理で日が落ち始めたはずである。いつもなら、今頃は家に帰宅して読書にでも更ける時間帯ではないだろうか。
 家のことを思い出して、寛美は少しだけ苦い気持ちを噛み締めた。自分達はこれからどこかへ逃げなければならない。さもなくば、黙って殺されるかである。いずれにおいても、今朝までは全く考えてもみないことだった。だから、家族には今朝もいつもと変わらない「行ってきます」しか言わなかった。いや、帰宅が遅くなるか尋ねた母に、今日は多分寄り道しないで帰る、という内容のことを言わなかっただろうか。――寄り道どころの騒ぎではなくなってしまったが。
 (参ったな。)寛美は顔をしかめて眼鏡を外した。急速に視界がぼやけたのは、両親譲りの近眼のせいか、それとも。(感傷なんてガラじゃないのに。)
 放送は何か人名を読み上げていたが、あまり興味を持てなかった。後で生存者の状況について読み上げられる。それさえ把握しておけば構わないと考えた。
 小魚が何か小さく呻いた。その呻き声の向こうで何となく聞き覚えのあるクラスメイトの名前――仏 塀跳――が読み上げられていた。小魚も大花も、悲しそうな顔をした。
 自分達が死んだら、家族は悲しむだろうか。不意に思い出したのは、泣きながら兄の訃報を持って来た鈴華の姿だった。いつもは見上げていた長身の彼女が、とても無力で小さく見えた。
 唐突に、竜血樹が気になった。彼は既に両親がない。家族と呼べるのは、おそらく老いた育ての親の『先生』のみだ。
 いや、と寛美は自分で打ち消した。彼には恋人と子供がいる。既に彼は、与えられた訳ではない、自分の力で見つけ出した家族がいる。
 むしろ、遺して逝く方が哀しいかもしれない。
 寛美はメモを書き込む竜血樹の前に回り込んだ。彼の送電装置さえ壊したら、この忌々しい盗聴機も壊滅させることが出来る。状況は大きく変わる。そう思いながら眼鏡を掛け直した。
 ようやく放送の方は、延々と続いたこのゲームの犠牲者の名前を読みきった。名前は全部で十一人分だった。次いで、生存者の状況が上げられるはずである。
 『現在の生存者の状況をお報せします。』
 来た、と小さな声で呟いたのは大花だろう。竜血樹の胸のバッヂに手を伸ばしかけた寛美もしばし手を止めた。
 『生存者は現在九名。色分けは、赤二名、青一名、黄色一名、白一名、黒四名となっています。』
 寛美はえ、という顔をした。鈴華も気付いたらしい、ぎょっとして竜血樹の方を向く。気付いていないはずはないだろうに、竜血樹は素知らぬ顔でメモを閉じ、ペンと一緒に片付ける。
 「どういうこと?」鈴華が声を出した。柔らかい声が少し震えていた。竜血樹は、やはり振り向かなかった。「何が?」
 小魚が口を挟んだ。彼もまた、気付いたらしい。「お前が気付かないはずないだろう。昼の放送では、黒ゼッケンの生存者が三人だったはずなのに、どうして今のだと四人に増えてるんだ。誰かが生き返ったりしない限り、そんなことあるはずない!どういう意味なんだ?」
 「死亡者リストに重複はないし、生存者の数で考えると計算は合う。生き返ったという可能性はない。」むしろ淡々と竜血樹は言った。長い髪は、じりとも動かない。さっきから彼は全くこちらに構う気配がない。それを見て、大花がやきもきしながら言った。「だったらどういうことよ!説明しなさい!!」
 竜血樹は短く言った。「発想を変えろ。」
 全く意味がわからない四人に向かって、彼は早口に説明する。「頭数は合うのにゼッケンの数が合わないなら、問題の原因の所在は明白だろう。ゼッケンが変色したんだよ。」
 「どうしてそんな・・・。」ことが起こるの、と言い掛けて、寛美ははたと気が付いた。「・・・もしかして、血?」
 『失礼しました。たった今黒いゼッケンの成 京一(ソン キョンイル)くんがこのゲームから脱落しました。生存者は八名になります。』
 そう放送が付け加える中、寛美は自分の発言に確信を持った。「血糊が大量に着いたら、ゼッケンの黄色と白は赤に、青は黒に、変色するんでしょ。」
 「それの意図まで汲み取れたら、セニャンはやっぱり天才だ。」竜血樹が微かに笑った気がした。寛美は言う。「同じゼッケンの人間は、会場内に自分以外に七人。三十九人を殺せと言われたらさすがに無理だと思うけど、七人なら?常軌を逸した数ではあるけど、比較したら何となく可能な気がしない?だから同じ色のゼッケンを付けた相手だけは殺そうと思ったりする。ところが、自分の怪我なり返り血なりでゼッケンが変色していくと、必然的に赤と黒の二色に淘汰されていく。始めからこの二色を付ける人間に好戦的な、勢い余って違う色の人も殺してしまうような人物を配しておくと?――生存者数は一人でも少ない方が、後始末が楽だもの。」
 ようやく竜血樹は寛美の顔を見た。寛美は自分の知能を相応に自負しているから、当然気付いていた。彼は初めから、寛美個人には興味をほとんど抱いてくれなかった。ただ、彼女の明晰な頭脳には、必ず注目してくれた。
 知っていた。竜血樹の目を惹きつけるためには、抱き付くよりも、甘い言葉よりも、キスよりも、冷静な分析を発表する方が遥かに有効だと言うことを。ただ一人、あの灰になった写真の女性を除いては。
 「さすがだな。」感嘆の溜め息を付くように竜血樹は言った。「皆、そういうことだ。納得したか。」
 そして、顔を元の方向に向けた。その濃い色の瞳の先で、さっきから絶えることのなかった銃声が一際大きく響いた。
 沈黙が流れ込む。
 おもむろに竜血樹は口を開いた。「時間がない。もう向こうは決まる。」
 その冷たい声に、鈴華が身をすくませた。決戦のときは刻一刻と近付いている。
 ふと、大花が一歩前に出た。そして、腰に手を当てて言った。「行って来るわ。」
 一瞬理解できずに全員きょとんとした表情になったが、我に帰った小魚が慌てて止めた。「行くって、どこに!?」
 大花は右手の親指で、銃声の響く方を指す。「だって、シャオユウもフェイロンもリンファも、もう敵は残っていない訳でしょ?後二人以上同じ色のゼッケンが残ってるのはあたしとカンメイだけ。向こうでドンパチやってるのはあたしとカンメイの敵で間違いないじゃない。自分のことは自分で蹴りを付けて来るわよ。」屈託なく、彼女はそう言った。
 銀色のメッシュをがりがりと引っ掻きながら、寛美はやれやれといった調子で言った。「だったら、あたしはMs.チャンの倍は戦わなくっちゃ。あんたの敵は後一人だけど、あたしの敵は二人残ってるもの。」我ながら殺人行為に麻痺してきたものだ、と内心寛美は溜め息を吐いた。
 それを見て、大花が声を上げて笑う。「馬っ鹿じゃないの、カンメイ。あんたなんかが着いて来たら、足手纏いもいいところじゃない。悪いこと言わないから、あんたはこっちに残ってなさい。」
 大花は竜血樹にちらりと目をやった。時間を稼ぐつもりなのだろう。
 そして大花は、つかつかと銃声の響く方へ歩みを進めて行った。慌てて小魚が後を追い掛ける。「手伝う。それならいいだろ?」
 大花は肩をすくめて、片目を閉じた。「わかった、それなら許す。」
 半ば茫然とした寛美だったが、大花の意図を汲み取ると急いで竜血樹の胸にもう一度手を伸ばす。だが、長身の彼には背伸びをしてもなかなか届かない。
 屈んで、と言い掛けたが、竜血樹が言葉を発する方が早かった。
 「二人とも待て。契約を忘れたか?お前達だけに危険な目に合わせる訳にはいかないだろう。――仲間なんだから。」
 そして彼は、寛美と鈴華にも目をやった。「どうする?」とその目は言っていた。嫌ならここで待っていてもいい、と。
 (こいつは何を考えているの?)まだ機械を外せていないのに。彼の考える内容が読み取れず、軽い眩暈を覚えた寛美だったが、考えるよりも先に言葉が出て来た。
 「もちろん、あたしも行くわよ。」




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