モドル | モクジ

最終夜・後編



  死んでも、構わなかった。

   最終夜・後編


 カタカタカタカタ
 無機質なマシンガンの音がこだまする。エバはその音の中で、信じられないというように目を見開いた。だが、彼女の碧眼は闇以外を映さなかった。――いや、彼女の視野を占拠しているのは、闇ではない。闇と同じ色をしているもの――。
 「・・・ダワ・・・。」
 動けないエバの前で、ダワが両腕を広げて立っていた。丁度鳥が翼を広げて、雛を守るように。黒ずくめの彼女の姿で、エバの身体は事実完全に銃弾から守られていた。
 押し殺した声が聞こえた。「・・・怪我はない?」
 エバは頷いた。前に立って同じ方向を向いているダワに到底見えるはずはなかったが、それでもダワには通じたらしかった。小さく安堵の溜め息が漏れる。
 水音がした。
 地面に目をやると、ダワの足元で黒々とした液体が小さな飛沫を上げながら、水溜まりを作っているところだった。明るい下で見たら、それは間違いなく赤い色をしているだろう。それでもダワは、両腕を肩の高さに上げたまま姿勢を崩さない。瞠目したまま、妹の敵を大きな瞳で睨み上げていた。
 ダワの身体越しに、押し殺した悲鳴が上がった。彼女に銃弾を撃ち込んだ本人達が、その恐怖に慄いている声だとすぐにわかった。
 今なら勝てる。エバは塀に縫い付けられた、細かい刺繍の入った血染めの袖を引き千切った。一瞬迷ったが、足下のショットガンに腕を伸ばす。
 ポーンピーンポーンポォーン
 屈み掛けて、彼女は一瞬動きを止めた。あの煩わしい放送が始まったらしい。だが、エバが止まったのはもっと別の理由である。
 向こうの二人が近付いて来ているのだ。
 おそらく、ダワが邪魔になってとどめを刺せないのだろう。ダワは用心すべき相手だが、既に致命的な傷を負わせている。そして何より、彼女には飛び道具がない。だから近付けるという読みなのだろう。
 甘い、とエバは思った。音もなくショットガンを拾い上げた彼女は、静かにカートリッジを取り替えた。剥き出しになった片腕で大きな鉄の筒を構え、照準を合わせる。もっと近付け、後十五歩・・・後十歩。
 放送が、京一の死を告げた。多分さっきエバが撃った相手だ。今まで生きていたらしい、しぶとい奴だ。だが、もう死んだ。
 後五歩。エバは姉の背に銃口を当てた。彼女は何も言わなかった。ただ、荒い息遣いだけが聞き取れる。
 後三歩。弱い風が吹いた。血の匂いが立ち上る。ダワは固く目を閉じた。
 後一歩。エバは引き金に掛けた指に力を入れる。
 ガン
 ゆっくりと、崩れるようにダワが倒れた。脇腹に近い部分に大きな穴が開いて、そこから黒く血が吹き出した。
 にわかに拓けた視界の中で、二人連れの男子の片方が頭部に両手を当てながら、天を仰いでいた。彼のその頭は、半分吹き飛んでいた。血柱を上げながら彼は昏倒する。もはや顔からは、クラスの誰だか判別できなかった。もっともエバは、クラスの人物の顔などほとんど覚えてはいなかったが。
 茫然と相方が倒れるのを見ていた男は、はっと我に帰ると慌ててマシンガンを構えた。だが。
 「遅い。」
 次の瞬間、彼は後ろ向きに大きく仰け反った。でたらめな軌道を描きながら、マシンガンは点線状に弾を吐き出したが、当然エバには一つも当たらなかった。頭部から放射状に血痕を打ち広げ、マシンガンを抱えて彼は仰向けに倒れた。倒れた瞬間には既に、絶命していた。
 ふう、と一息吐くと、エバはポケットから煙草を取り出した。そして軽く咥え、ライターで火を付けた。
 それからようやく、足下に伏しているダワに目をやった。見ると、まだ辛うじて息はあるようで、微かに血を引いた唇を動かしていた。エバは屈み込んで、その顔を覗き込む。
 際立って大きな黒い瞳も、痩せた白い頬も、解けて扇のように広がった長い黒髪も、か細い肢体の長身も、何一つ自分と似ていない姉。エバに向かって彼女は、羨ましい、と言ったことがあった。そのときエバは全く同じ台詞を姉に、そのまま返した。仲の良い姉妹だ、と故郷では評判だった。だが、そう言われる度にエバは心の中で何か違和感を感じないではいられなかった。
 ダワは微かに何か言ったが、エバには聞き取ることが出来なかった。
 エバはもう一本煙草を取り出した。そして、ダワの震える唇に含ませた。ダワは、僅かに目を細めた。
 静かにエバは、姉の煙草に火を付けた。その先端に赤い火が灯り、白い煙が天に向かって立ち昇った。エバは思わずそれを目で追った。
 再びダワに目をやると、彼女は力なく柔らかい瞼を伏せていた。



 竜血樹は人に有無を言わせないものを持っている、と今更のように寛美は考えた。表面上は意見を求めている形でも、その実選択肢は一つしかない。例えそれが、自分の不利になることだとしても。
 結局いつもの一行は、銃声の途切れた現場へぞろぞろと向かって行った。その中で今、会場から抜け出した時点で命を落とすことが確定しているのは竜血樹唯一人。寛美としては、一刻も早く彼の胸に付けられたバッヂを解除したいところではあるが、やはり彼の意志を曲げることは出来なかった。放送に気を取られて機を逸した自分の落ち度を悔むしかない。
 先頭を切るのは大花、そのすぐ脇を小魚が控えている。鈴華はきょろきょろと落ち付かなげに左右を見渡していて、一方全く周囲に注意を払おうとしないのが寛美。一番後ろを静かに竜血樹が固めていた。
 さっきの放送によると、自分達五人以外の人間は会場内に後三人、加えて繊月がいるはずである。放送で読み上げられなかった人間――すなわち生存者――の中には、確か朴 江葉も含まれている。あの、砂色の髪の少女。繊月は、妹を探していると言った。顔立ちはあまりにも似ていないが、おそらく彼女がそれだろう。
 全員の不安はそこだった。攻撃を掛けられなかったとしたら、江葉を説得して彼女のバッヂを壊し、監視の目を撹乱した隙に何とか逃亡することも叶うだろうが、もしも彼女が『やる気』だとしたら。そして、妹と合流した繊月が今度こそ、五人に向けて攻撃の手を伸ばして来たら。一瞬の躊躇が命取りになり兼ねない相手だとわかっている分、怖かった。せめて繊月が襲撃してくるのか否か、それさえわかっていたら状況は大きく異なるのに、と寛美は溜め息を吐いた。
 溜め息を吐いた拍子に、突然立ち止まった鈴華の背中にぶつかった。
 「・・・何?」鈴華の声だった。彼女もまた、前方の小魚が急停止した為につんのめったらしい。きょとんと小魚の後頭部を見上げて、首を傾げた。彼も、その隣の大花も、固まってしまったように見えたのだ。
 返事がなかなか来ないので、じれったくなった寛美はぞろっと並んだ列の脇から顔を覗かせて、前方に目をやった。小柄な彼女は三人の影に多少難儀したが、すぐに双子を固めた原因に気が付いた。
 人間が何人か倒れているのがわかった。薄暗いのでよくは見えなかったが、折り伏すように二人、少し離れたところに一人、倒れ込んでいる。折り伏している人影は、さして興味を引かなかった。黒っぽいゼッケンを付けた男子のようだったが、顔まではよく見えなかったので誰だか判別できなかった。気になるのはもう一人、黒髪を打ち広げて仰向けに倒れている姿だった。たおやかな身体の曲線は、女性のもの。闇に紛れ掛けている黒装束。
 (あれ。)知っている姿に酷似していた。まさか、と思いつつ、彼女以外にあり得ない、と見えない誰かが聞こえない声で叫ぶ。
 真っ先に駆け出したのは、小魚だった。それを制しようとして、竜血樹も後を追う。少女達はまだ、茫然と立ち尽くしたままだった。
 その瞬間、五人の背後の街燈が点滅しながら黄ばんだ光を付けた。
 小魚は倒れた人影の脇に膝を付いた。そしてその顔を覗き込み、信じられないといった様子で呟いた。「・・・どうして?」
 竜血樹は周囲に警戒しながら、女性の顔を見た。血に汚れてはいるが、頬の向こう傷も線の細い端正な面持ちも間違いない。
 ダワ――韓国名、朴 繊月その人だった。


 「朴さんだ。」いつもは冷静な彼の声にも、驚きは隠せないようだった。
 それを聞いて一番に飛び出したのは、鈴華だった。次いで大花が追う。最後に寛美が用心深くそろそろと出て来た。
 屈み込んだ大花と小魚の頭の間を掻き分けるようにして、寛美は尋ねた。声が上擦っている気がする。「どう?」
 血溜まりを避けて膝を地に付けた竜血樹は、言われて腕を伸ばし、繊月の口許に手の甲を近付けた。僅かに首を傾げ、今度は彼女の細い首筋に掌をやる。しばらくじっと何かを考え込むような表情を見せていたが、四人の痛いほどの視線にようやく面を上げた。
 そして、首を横に振った。
 大きく目を見開いた小魚は、勢い込んで尋ねた。「どうして!?」竜血樹が心なしか青褪めているようにも見えるが、黄昏の光加減かもしれない。
 彼は、軽く遺体を検分しながら言った。「ショットガンか何かだな。背後から、それもかなりの至近距離でやられてる。だが、それにしては妙だな。マシンガンに撃たれた跡もある。ああ、それは多分そこに転がってる奴からだな。相撃ちにでもなったんだろう。」
 そして竜血樹は、どこか複雑そうな表情を浮かべた。丁度燃えた写真の女性が、繊月と同じくらいの年頃だったからかもしれない。
 鈴華が顔を背けたので、悪い、と思いつつ寛美は彼女に場を譲ってもらった。黒ずくめの上、薄闇の中でなかなか傷跡を見付けられなかったが、それでも服ごと大きな穴の開いた脇腹はすぐわかった。黒い血肉が湧き出そうとしてそのまま固まってしまったように、その傷は凄惨だった。だが、それよりももっと目を引いたのは――。
 「Mr.リュー、この人煙草咥えてる。」比較的損傷の少ない頭部に目をやり、寛美は驚いたように言った。繊月は、天から僅かに背けた顔の唇に、短くなった煙草を咥えていたのである。甘い煙にむせながら、寛美は煙草を覗き込んだ。灰は、繊月の白い頬から地面にこぼれ落ちている。そして、力のない唇に含まれた煙草の先端には、まだ赤い火が灯っていた。
 そのことには、大花も目聡く気付いたようだった。しばらく瞬きをしながらその灯かりを見詰めていたが、はたと思い付くところがあったらしく、慌てて小魚の袖を引いた。まだ彼は茫然としていたので、大花は軽く弟の頬を打った。
 「腑抜けてる場合じゃないわよ!!」きつい声で言いながら、彼女は鉄扇を取り出した。そして素早く周囲を見渡す。
鈴華が、今にも泣き出しそうな、怒ったような表情を浮かべて寛美の方を向いた。目許にはうっすらと涙が滲んでいる。「・・・どういうこと?」
 寛美は軽く肩をすかせた。「何で死んでるのかだったら、わからないわよ。この人がまさかやられるなんて、誰が想像できたって言うの?――要するに、まだこの人を殺せるだけの人物がいて、しかもどこかに隠れてるってことでしょ?」
 「追加。」竜血樹が、ずっと背負っていたデイバッグを下ろした。その中をごそごそと漁って、取り出したのは一本のナイフだった。皮の鞘が被せられた、細身でやや長めの刀身を咥えると、白い上着の裾を手繰った。スラックスのベルトの右側には、あの装飾の付いた銃が捻じ込まれている。左側の腰にナイフを鞘ごと挿し込みながら、竜血樹は言った。「朴さんは死んでいる。だが、まだ温かかった。さっき聞こえた銃撃戦でやられたに違いないだろう。――そして火の付いた煙草を咥えている。誰が煙草を咥えさせた?まさか銃撃戦の間中煙を吹かしていたはずないだろう。」
 一息にそう言うと、竜血樹は二、三度ナイフを揺ってそれをしっかりと固定した。「雲南省の少数民族の幾らかには、世話になった人間に、煙草を勧める風習があるそうだ。朴さんにはひどい訛があった。多分・・・雲南山岳地域の出身だと思う、爺様のそっちの知り合いが、よく似た訛を持ってた。」
 寛美は瞬間的に、薄闇の中で自分が隠れることが出来そうな空間を探した。当然自分が隠れる為ではない。クラス内で一番自分と体格が似ている『彼女』なら、他の人が思いもよらない――寛美なら思いつくやもしれない――場所で息を潜めているかもしれない、と考えたのだ。くすっと竜血樹が笑った。悪意のない笑みだった。
 「相手はここを離れてからまだ間がない。間がなさ過ぎて、自分の足場も定められていなかったんだ。さもなくば、チャンテイが飛び出したときに得物で撃っていたはずだ。・・・だが、そろそろ、布陣は終わった頃だろう?」誰ともなしに、竜血樹は話し掛けるように言った。双子が、びくっと身震いして構え直す。
 「あんた達は下がってなさい!」厳しい声で大花が言った。その声の語尾が掻き消える。
 ガン
 弾丸が、降って来た。


 「周さん!!!」鈴華のくぐもったような柔らかい声が叫んだ。大花が突如地面に付いた弾痕と共に倒れたのだ。寛美も、背中を冷たいものが走った。
 だが、すぐに大花は体勢を立て直した。怪我は、僅かに膝を擦った程度のようだ。おそらく勢いで転んだだけだろう。
 「だいじょーぶ。」彼女は人差し指を立てた。笑ってみせるゆとりがまだある。鈴華は胸を撫で下ろした。
 ふと寛美が顔を上げてみると、竜血樹が厳しい顔で何かを睨んでいた。何かを見上げているようだ。視線を追ってみると、その先に赤錆色の古い鉄筋アパートが見えた。小さな非常灯の点った廊下に人影はない。しかし・・・。
 「気配がある。」小魚が呻くように呟いた。無言で竜血樹も同意している。
 アパートの向かって左側に、階段があるようだ。断定できないのは、その部分がコンクリートの四角い塔のような物で覆われている為である。踊場に当たるであろうところには、小さな明り取りの窓が付いているが、中は暗くて覗けない。だが、人がいるのは確かだった。動く小さな影が見えた。だが、影しか見えない。
 ふと寛美は、ポケットにずっと仕舞い込んであった小銃を取り出した。そして僅かに震える手を固定して、腕を伸ばし引き金を引く。
 パン
 ガシャン
 ガラスが割れる音がして、街燈の灯かりが消えた。双子は驚いたようだったが、さすがに気を緩めるほど愚かではなかった。
 (まさか一発で当たるとは思わなかったわね。)我ながら寛美は感嘆した。生憎、街燈の明かりの中、敵から――断定するのは即決かもしれなかったが、十中八九繊月を殺した相手と見て間違いはないはずである――丸見えの状態で突っ立っていてやるほど、性格はよろしくない。これで、向こうからも易々と姿を眺められはしないはずだ。ついでに、こちらも暗くなったせいで、向こうの姿も格段に見易くなった。
 小魚が切れ長の目を細めた。二階の階段塔に半身を隠すようにして立っている人の姿が見えたのだ。緑色の非常灯が逆光になって、表情は見えない。だが、薄く光に透ける髪の色も、華奢な立ち姿も見て取れる。そんな人物は、クラスに一人しかいない――一人だけ、存在する。
 「朴 江葉・・・。」誰とはなしに、呟いた。


 ガン
 次の弾丸が撃ち込まれたが、今度は全然見当違いの方向へ飛んで行った。江葉もこちらがよく見えてはいないのだろう。あるいは威嚇射撃だったのかもしれない。ともあれ、誰も怪我はしなかった。
 (不利だな。)竜血樹はちらりと仲間を見やった。双子は武芸には堪能だが、接近戦に持ち込めなければほとんど使えない。寛美は、確かに技術力は評価できるが戦闘向きの人材ではない。鈴華に至っては正直、普通に考えたらこの場に参加する前に脱落していそうなものである。
 彼は、頬に掛かった髪の毛を耳に掻き揚げた。更に、と考える。自分自身はそれなりに実戦に心得があるが、夜目にこの髪の色は映える。さすがに、完全な闇の中から銃で狙われて、避けられる自信はなかった。残照が消え失せるまでに決着を決めなければならない。
 不意に、仲間側から声が聞こえた。
 「尋ねたいことがある。」
 カタカタカタカタ
 今度は、マシンガンの弾が連続的に降って来た。慌てて寛美は身をかわす。声を出し掛けた鈴華の口を押さえて、竜血樹も数歩後退った。
 大花の小さな悲鳴が聞こえる。ぎょっとして目をやると、弟を避けさせようとした彼女が尻餅をついた拍子に出した声らしい。乱暴に寛美に鈴華を押し付けると、竜血樹は次の瞬間に大花を抱え、数十センチ離れたところに押し倒した。
 カタカタカタカタ
 大花がさっきまで倒れていたコンクリート舗装の地面に、丸い幾つもの小さな穴と亀裂が走った。それを人間の身に置き換えると、ぞっとする。
 「頼む、答えてくれ。」
 カタカタカタカタ
 「やめろ、声を出すな!」竜血樹は、小魚を引きずりながら言った。彼等が飛ぶように移動した後に、狙ったかのように銃弾が飛んで来る。
 いや、実際に狙っているのだろう。声のする方向から寸分の狂いもなく目標を定めることが、江葉には出来るらしい。そこに思い至って、今更のように寛美はクラスメイトに恐怖の念を抱いた。
 江葉がなぜ三階建ての建物の二階に構えているのかもわかった。射程範囲を考えるなら、ショットガンにしてもマシンガンにしても三階からで十分なはずだ。そうではない、二階なら地上の話し声がはっきりと聞き取れるのだ。そして彼女は、目を使わなくても耳だけで照準を合わせることが出来るのだ。
 寛美もまた、小魚を止めるのに加勢しようと思った。だが、むしろ彼女が加わらない方が竜血樹は自由に動けると、何とか踏み止まった。
 カタカタカタカタ
 鈴華が怯えたような目を寛美に向けた。どうしたのか、と思い、寛美はようやく自分の手が鈴華の口を塞いでいることに気付いた。黙るように仕草して、そろそろと手を離す。鈴華は何か尋ねようとしたが、寛美に止められて言葉を飲み込んだ。不審に思った鈴華が大花に目をやると、彼女は不安げな眼差しを小魚に向けていた。飛び出して行きたいのを必死に堪えているようだった。
 カタカタカタカタ
 「どうして、お前の姉さんは死んだんだ!?」小魚は叫んだ。必死の形相の彼を抱えて、竜血樹は弾を避ける。何度も髪の毛に銃弾が掠る間隔を覚えた。再び小魚が叫ぶ。「どうして、お前の姉さんは死ななきゃならなかったんだ!?」
 小魚のチョゴリの襟首を引っ掴んで、ふと竜血樹は銃弾が途切れたことに気付いた。装着弾が切れたのか、と思い更けてきた闇の中で目を凝らすと、江葉はマシンガンを構えたままで立っていた。そして、耳馴染みのしない硬質の声で言った。「なぜ、そんなことを訊くの?」
 「俺はお前の姉さんに、助けてもらったんだ。だから・・・。」
 「わたしが答えても、生き返らない。」冷たく江葉は言い放った。そして、再びマシンガンを構え直す。
 寛美は、初めて彼女の声を聞いたように思った。もしかしたら授業中に当てられたときはさすがに口を開いていたのかもしれないが、授業は寝る為にあると確信していた寛美には、いずれにしても耳にする機はないはずだった。
 ふと、寛美は無意識の内に数歩足を前に運んでいた。そして、よく通る舞台映えのする声で言った。「ちょっとだけ待ってね。これだけあたしも聞いておきたいの。」
 江葉はマシンガンの照準越しに、寛美を見た。辛うじて小銃を持っているのがわかったが、彼女の運動神経なら不穏な動きを見せるや否や撃てばよい、と判断し、引き金に掛けた指の力を緩めた。
 「あんたの三日月姉さんは、マシンガンとショットガンで撃たれて死んだのよね。でも、まさかガンの方が勝手に発砲して姉さんが死んだ訳じゃないでしょう?あたし達はあんたの姉さんにお世話になったの。だから、どうして亡くなったのか・・・ぶっちゃけた話、誰が殺したのか気になるのよ。単なる好奇心と見てもらって構わないけど、答えてもらえるかしら。」寛美は、銀色のメッシュの根元をがりがりと掻きながら言った。その声を黙って聞いている江葉は、開いている左手を髪にやった。別に掻き揚げる為でもないようだ。彼女の癖なのかもしれない。
 挑発するような目付きで寛美は江葉を見上げた。口許には、意地悪い笑みすら浮かんでいたが、おそらく江葉には届かなかっただろう。隣の鈴華ですら気付かなかったのだから。左手で自分の髪を――丁度左耳の前に走る銀色の房を――弄びながら江葉は静かに五人を、寛美を見下ろした。碧眼が冷たさを増す。
 「わたしが、撃った。」流暢でない言葉が、余計に鋭く聞こえた。


 表情の見えない江葉を睨んでいた寛美は、だから慌てて、飛び出そうとする鈴華の双肩を押さえた。彼女は関節の目立つ寛美の指を振り解こうと躍起になった。だが、加勢した大花に押さえられ、結局首だけをアパートの二階に向けて突き出しながら叫んだ。「どうして!?どうしてそんなことしたの!?」
 ほとんど無表情だった江葉は、そのとき僅かに眉をひそめた。
 遮二無二身を捩りながら、鈴華はなおも叫んだ。「お姉さんは、朴さんの為にこんなに危ない会場に入ってきたんでしょう!何でそれなのに朴さんが・・・。」
 これ以上聞きたくなかったらしい。無口な江葉が言葉を遮った。「目の前にいて邪魔だったから、そこに転がってるのと纏めて撃った。」
 さすがに寛美もその言葉にはぎょっとしたが、何か言葉を発する前に別の人間が叫んでいた。
 「何でそんなこと出来るんだよ!!!」小魚だった。
 誰か引き止めるかと思ったが、誰も引き止めなかった。疑問に思った寛美自身、止めようという気持ちは全く起こらなかった。
 「お前の姉さんなんだろう!?何でそんなこと・・・。」小魚の声が潤んでいた。すぐ隣で、大花が何故か泣き出しそうな顔をしていた。
 時を追うごとにますます色を濃くする闇の中、もはや江葉の表情を全く覗うことは出来なくなった。だが、それでも彼女がマシンガンの照準を合わせ構えているのくらいは見て取れる。
 (あれは、人じゃない・・・。)粟立った腕を袖の上から押さえて、寛美はふとそう思った。美しい人間の皮を被った鬼、昔祖父から聞いた昔話を何となく思い出していた。(マシンガンなら連射だから、皆纏めてやられるのかな。)我ながら不吉な想像だと、口の中で笑う。
 タン
 突然、固く澄み通った音が一面に響いた。はっと我に帰って見ると、江葉のいるアパートの二階廊下部分の手摺りに、もう一人の人影が見て取れた。僅かに江葉がたじろぐ。
 白い上着に白いゼッケン、長い淡い色の髪をうねらせて、夜目にも明るい竜血樹が江葉に対峙していた。いや、身長にかなりの差があるから、むしろ見下ろしていると言った方が正しいだろう。幅の狭い廊下に向かい合って、江葉は再びマシンガンを構え直した。あんな至近距離で避けられるはずがない、と地上の四人が硬直する。
 江葉が引き金に指を掛ける瞬間に、竜血樹は腰の鞘からナイフを引き抜く。
 カタカタカタカタ
 驚いたことに、彼には連射のマシンガンの弾は一つも当たらなかった。身の厚いナイフを身体の前にかざし、連射の弾の軌道に合わせて常人の動体視力では捕られられない速度で操る。あの小さな弾をあんなナイフ一本で全て捕えているのだ。
 カタカタカタカタ
 カタカタカタカタ
 二人は間を縮めたり、広げたり、接触しそうなくらいに接近したり、手摺りに飛び乗って位置を入れ替えたりして物凄い戦いを繰り広げている。いや、殺意があるのは一方的に江葉の方だ。この期に及んで竜血樹には江葉を殺すという気迫がなかった。それがかえって不気味である。
 江葉がちらりちらちと寛美の方に注意を払っているのがわかる。何故だろう、と思い、寛美は自分が銃を持っていることに思い至った。
 六発込めのマカロフでさっき一発使ったから、残る弾は五発。チャンスも五回。だが、寛美の腕では江葉に当てようと撃ったところで、当たるはずがない。それだけならいいが、下手をしたら竜血樹に当ててしまう恐れもある。それが怖くて、引き金に差し込んだ指に力を込めることが出来なかった。
 カタカタカ・・・
 カシャッ、カシャッ
 ガシャン
 江葉がマシンガンを投げ捨てた。弾が切れたらしい。そして一瞬の隙を突いて駆け寄って来る竜血樹を危なくかわすと、さっき捨てたショットガンに向かって身体を低くしながら走り、片手で拾った。その腕を軸にして両足を一瞬宙に浮かせると、彼女の軽い身体は百八十度回転する。再び立ち上がったときには竜血樹と江葉、二人の立ち位置は完全に逆転していた。
 江葉はカチリ、と音を立ててショットガンを構える。さすがにこれは、ナイフでかわすことは出来ないであろう。竜血樹が僅かに青褪める。
 ガン
 構えから間髪入れずに江葉は砲撃した。その視界から一瞬竜血樹の姿が消える。弾は目標物を失って、仕方なく適当な壁に激突し、破裂した。
 そして竜血樹の白い姿が現れた。屈んで何とかやり過ごしたらしい。長身の彼には、辛そうな技である。
 ガン
 再びショットガンが火を吹く。中途半端な高度の弾丸を、今度は身体を脇に反らせて避ける。そのとき、彼の手のナイフに弾丸が掠ったらしい。厚い身のナイフがガラスのように砕け散った。
 息を飲み、寛美は隣の鈴華に目をやろうとした。が。
 鈴華は隣にいなかった。寛美は慌てて辺りを見渡すが、暗いせいもありよく見えない。同時に双子の姿を探したが、二人とも視野の中にいない。柄にもなく、焦りを感じる。
 ガン、ガン
 そのとき、頭上で江葉がたじろぐ気配を感じた。見上げると、アパートの二階部分、江葉と竜血樹の他に、二人分の人影が見て取れた。
 瞬間双子かと思ったが、大花がアパートの階段の下で待機しているのを見る。だとしたらあの二人は――。
 いつしか江葉の背後に回り込んだ長身の少年と、階段室に半身を隠している猫毛の少女。――小魚と鈴華だった。
 「無茶な!」思ったことが、そのまま口からこぼれ出した。


 まずいかもしれない、と竜血樹は思った。至近距離からのショットガン、しかも相手は相当に出来る、その上こちらに得物が何も残っていない。そして。
 自分と対峙する敵の背後にいる仲間。
 (かばい切れない。)竜血樹は唇を噛んだ。金臭い血の味が口の中に広がる。そのときふと、耳に馴染んだ優しい声が聞こえた気がした。
 『あなたが護ってくれるのは嬉しいけれど、ときにはわたしを信じてくれる?』
 彼女は大丈夫だ。誰よりも信用できる彼自身の手で、この危険な国から逃がしたはずだ。だったら、自分は一体何を惜しむ必要があるだろう。
 血を引いた唇を歪めて、竜血樹は笑った。凄みのあるその表情に、さしもの江葉も一瞬気を呑まれる。その針の先ほどに僅かな隙。
 竜血樹はベランダの柵に飛び乗って片足で踏み切ると、思い切って江葉の腕の銃に飛び付いた。その瞬間、美しい亜麻色の髪の毛が宙に弾けて舞った。華奢な彼女の腕ごと、彼は重い銃身を捩じ上げようとする。だが、江葉も黙ってやられるはずがない。両手首を抑えられながら、辛うじて動く指で引き金を引いた。
 ガン
 血飛沫が上がったのが見えた。小魚の立つ角度からは、何がどうなったのかよくわからない。小柄な江葉と、彼女に比べうんと長身な竜血樹が揉み合っているのはわかるが、さっきの血飛沫がどちらの物なのかはわからない。江葉は既に血塗れているし、薄闇と解けて乱れた亜麻色の髪に妨害されて、竜血樹の状態もよく見えない。知らずに彼は息を飲んだ。
 加勢しようと片足を踏みこんだ瞬間、彼の隣を掠めて一足先に駆け出して行く影があった。――鈴華である。
 彼女の左腕で、何かが非常灯を映し鈍く光った。ナイフである。劇場で繊月が綱元を切るのに使った、あの左利き用のナイフ。それを鈴華は振り上げた。
 遅れて小魚も飛び出した。駄目だ、鈴華に人を斬ることは出来ない。その前に、そんなことをさせてはならない。
 鈴華が飛び掛かる一瞬前、江葉はくるりと振り向いた。そしてその瞬間に竜血樹の腕を力任せに振り解く。腕を大きく跳ね上げられた彼は微かな声を上げた。
 その白い片袖が、引き千切られて真っ赤に染まっていた。さっきの弾は、彼の腕を掠めていったのだ。それを見て、鈴華はびくりと身体を強張らせる。
 「止まるな!」自分の腕を押さえながら、竜血樹は濃い紫色の瞳を見開いた。その叫び声の下で、身を低く構えた江葉は腰帯に差していたナイフを引き抜き、次いで鈴華に向かって叩き付けた。
 自分の怪我を忘れたように、竜血樹は江葉を絡め取った。小魚は鈴華の身体にしがみ付き、江葉から引き剥がす。滅茶苦茶な姿勢の為に、変な角度で鈴華の見開いた目が視野に入った。
 大花の駆け上がって来る音が聞こえた。顔を階段の方に向けると、これ以上ないくらいに驚いた表情の大花が立っている。小魚は、鈴華のよろける身体を双子の姉に投げ付けるようにして預けた。無言のまま大花は受け取る。
 それを確認もしない内に、小魚は江葉の方に向き直った。江葉は竜血樹に羽交い締めにされもがいている。許せなかった。
 彼女のことを気遣っていた繊月を殺した。美しい竜血樹を傷付けた。優しい鈴華に刃を向けた。許せるはずがなかった。
 「ブッ殺す!」小魚は江葉に向かって掴み掛かった。


 ただ一人階下に残されて途方に暮れていた寛美は、アパートの廊下で乱闘の様子をずっと見ているしかなかった。だが、逆上した鈴華が江葉に飛び掛かったのまでは何とか見えたが、そこから先の揉み合いは夜目の利かない目ではさっぱり状況が掴めなかった。ただ、大花か小魚のものらしい物騒な叫び声から、事態が急転していることは読み取れた。おそらく、江葉の側では物凄く不利な状況になっているに違いない。
 ふと、寛美は両目を瞬かせて瞳を凝らした。二人の少年に揉まれた江葉が、ベランダの柵に背中を押し当てられて、後ろ向きに大きく半身を反らしているのだ。肩やら髪やらを掴まれて、足は完全に宙に浮いている。このままでは落ちる、と寛美が足を踏み出した瞬間、大きく傾いで小柄な江葉の身体は薄闇の空気の中に投げ出された。慌てて駆け寄ろうとした瞬間、軽く地を揺らす衝撃。
 寛美は落ちて倒れた江葉に駆け寄り、適当な距離を置いて足を緩め、銃を握り直した。仰向けに寝そべっているように見える江葉は、ぴくりとも動かない。頭を下にして落下したから、二階からとは言えども少なくとも気絶くらいはするだろう、と納得しようとしたが、それでも寛美は不思議の感を拭い切れなかった。死んだように動かない江葉と、これくらいでは死ぬはずがないと思う寛美。
 眠っているように目を閉じた江葉の顔を遠巻きに覗き込み、寛美は頭上の仲間達を見上げた。険しい顔で下を覗き込んでいる竜血樹と目が合う。乱れ髪の彼は、眉間を寄せたまま軽く頷いた。さらり、と亜麻色の髪が肩からこぼれ、行き場を失って空中で揺れる。
 彼の意図するところを何となく掴めた寛美は、掌に収まる小さな銃に目をやった。小さな掌の割には随分と長い指が、しっかりと引き金に絡んでいる。こんなに小さな物が、人一人の命を奪うことが出来るということが、寛美には今一つ実感として湧かなかった。だからこそ、彼女には出来たのかもしれない。
 寛美は、白いだぼだぼのセーターに覆われた腕を伸ばして、その先にあるマカロフの銃口を、江葉の砂色の前髪が掛かる額に押し当てた。江葉は、ぴくりとも動かなかった。それで寛美は空いている方の手で、もう片方の袖を肘まで引き上げた。ぎゅ、と両目を閉じる。
 そして、引き金に掛けた指に軽く力を込めた。
 ボン
 くぐもった音がした。恐る恐る目を開けて見ると、江葉はさっきまでと全く変わらない様子で横たわっていた。ただ、一つだけ異なるのは、丁度額の中央に丸い穴が開き、そこから静かにどす黒い血液が流れ出していること。
 小さく寛美は呟いた。「これであたしも人殺しだ。」


 「悪かったな。」アパートの本来の入り口から、竜血樹は下りて来た。亜麻色の見事な髪の毛が解けて、肩に腕に掛かっているのが美しかった。「一番損な役回りを押し付けた。」
 「そんなこと・・・。」まだ自分でやったことの意味も理解できていないし、と言い掛けて、寛美は竜血樹の片腕が鮮血でぐっしょりと濡れていることに気付いた。「Mr.リュー、あんたこそ怪我してるじゃない!」
 「そりゃあ俺だって銃で撃たれたんだから、怪我くらいする。それよりも・・・。」竜血樹は言葉を途切らせた。寛美は怪訝に思って大きなシニヨンの乗った細い首を傾げる。それで、長身の竜血樹に遮られていた他の仲間達がこちらに向かって来るのが見えた。大花と小魚と・・・。
 一瞬目を見開いて、寛美は双子の方に駆け寄った。二人に肩を支えられ、ぐったりとしている鈴華がいる。猫毛を重そうに顔に垂らして、表情はよく見えない。だが、微かに呻くような声は聞こえた。
 急いで彼女の身体を検分すると、胸元――丁度ゼッケンに覆われた辺りに一目で深手とわかる怪我が見て取れた。寛美は愕然とする。
 「スー、どうしたの!」鈴華の肩に手を掛けようとしたが、小魚に諌められて手を離した。だが、何も状況がわからない。何故、こういうことになっているのだろう。必死に考えたが、何も思い当たらない。鈴華に尋ねられる状態ではなさそうなので、代わりに誰とはなしに尋ね掛けた。「どういうこと!?」
 苦々しく答えたのは、すっかり髪のほつれた大花だった。「見てわからない?朴に刺されたのよ。」
 「何で!?」かぁっと頭に血が上るのを感じる。そんなことを突然言われてもわからない。鈴華がこんな重傷を負っていることに対する正しい説明ではない。自分が興奮していることにも気付かず、寛美は叫んだ。「何であんた達がいて、スーが怪我するのよ!あんなにあんた達強いじゃないの、どうしてよ!」
 大花は黙り込んで、竜血樹の方に救いを乞うような眼差しを向けた。その視線につられるようにして、寛美も竜血樹の方を振り向く。ゆっくりと歩み寄って来た彼は、ほとんど寛美には目もくれずに双子に指示した。「いつまで怪我人を立たせているつもりだ、早く下ろせ。」
 そして、怪我のない方の腕で鈴華の半身を支えると、自分もろとも膝を付いて彼女を仰向きに寝かせた。アパートの薄明かりで照らされると、思いの他に酷い怪我だというのがわかる。竜血樹は難しい顔をした。「まずいな。・・・痛むか?」
 鈴華は小さな声で言った。「・・・ううん、何か麻痺しちゃってる感じ。」
 寛美は息を飲んだ。彼女には、機械を壊す技術はあっても人間を治すという知識がない。何も出来ない自分が歯痒く、それで余計に苛々としながら竜血樹の次の言葉を待った。
 だが、彼の発言は寛美の期待を大きく裏切るものだった。「駄目だな、ゼッケンが黒に変色した。ゲームはまだ続く。」
 「何よ、それ!」泣きそうな顔で寛美は言った。そして不意に、つい先程鈴華が江葉に飛び掛かり、激しい乱闘になったことを思い出した。ならばそのときに刺された怪我か。「仲間じゃないの?契約じゃないの?皆で逃げようって言ったじゃない。初めに発案したのは誰よ、あんたじゃないMr.リュー!」
 苦しそうに荒い息をしていた鈴華が、突如声を出した。弱い声で、危うく寛美の叫び声に掻き消えてしまうところだった。寛美ははっと口を閉ざす。
 「・・・いいよ。あたしいいから、皆逃げて。」ぜえぜえと漏れる息の下で鈴華は何とか搾り出すようにそう言った。反射的に寛美は首を振る。「嫌よ!」
 残酷なほどに静かな声で、竜血樹は言った。「逃げる機会は一度だけ。試合終了直後だけだ。まだ駄目だな、黒が二人になったんだから。」
 「だったら話は早いじゃない。」鈴華は苦しそうに笑った。何故だか、泣きそうな顔に見える。「・・・とどめ、さしちゃって。」
 「嫌よ!!!」寛美は激しく首を振った。その勢いで、シニヨンが弾けて髪が散る。闇の中で銀色の一房が鮮やかだった。「スーも一緒に逃げるの。でなきゃ、あたしも一緒に残る!」
 「怪我人は足手纏いにしかならないんだ。」ぴしりと竜血樹は反論した。透き通った睫毛が薄い光を含む。
 大花が、その眼差しに気圧されながら言った。「そんなこと・・・それを言うならあんただって怪我人じゃないの。」
 竜血樹は答えなかった。一瞬しん、とした間が開いたので、慌てて大花が言葉を繋ぐ。「まさかあんたまでここに残るなんて言い出すつもりじゃないでしょうね!冗談じゃないわよ、あんたがいなかったらあたし達皆、どうやって会場から逃げ出せって言うのよ!」
 黙って竜血樹は、上着の懐から薄い封筒を取り出した。そしてそれを、鞘ごと引き抜いたナイフと一緒に茫然と立ち尽くす三人に投げてよこす。小魚が拾い上げて中を検分すると、そこには二枚の紙切れが入っていた。一枚目はこの国から隣国までの船便のチケット、二枚目は隣国からアメリカまで行ける航空チケットだった。小魚が勢い込んで顔を上げる。竜血樹がようやく笑顔を見せた。疲れた、力のない表情ではあったが。「やる。俺はもういらないから。」
 「そんなこと!」小魚が言い掛けたとき、不意に視野の端で寛美が背を向けたのが見えた。そしてそのまま足を運んで、どこかに行こうとする。勿論あてがないことぐらい、皆わかっている。じりっとコンクリートの上の砂を踏む音がした。
 「カンメイ。」突然、か細い声がした。びくりと寛美は背を向けたまま硬直する。鈴華は、苦しそうに首を持ち上げながら言った。「・・・ごめんね。」
 寛美はそのまま振り向きもしないで駆け出した。走っても、どこにも行くことは出来ないとわかっていたが、その場にはいたくなかった。出来るならいきなり飛び出して来た誰かに殺してさえもらいたい気持ちだったが、そうしてくれる最後の一人をつい今し方、自分が、殺してしまった。
 涙が出て来た。どうして鈴華に怪我を負わせてしまったのだろう。会ったばかりの頃に、竜血樹に忠告してもらっていたにも関わらず。どうして逃げろと竜血樹は言うのだろう。親友を、仲間を残して逃げることなんて出来るはずがないのに。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。昨日までは――いや、今朝起床したときは、こんなこと思いもしなかった。
 大花は素早く鈴華と寛美に目をやったが、意を決したように寛美の後を追い掛けて行った。残された小魚は、僅かに顔をしかめる竜血樹と、この上なく悲しそうな顔をした鈴華を見下ろした。確かに鈴華のゼッケンは変色し切ってもう黒にしか見えなかったが、竜血樹のゼッケンは、多少の染みはあるもののまだ白い。鈴華が死ねば、それで試合は完了するだろう。普通ならばその後、生存者はどこかに連れて行かれてそこで殺される、という寛美の推測はあながち間違いではないと思う。取り分け、三人が仮に逃げたとして、最後に残る竜血樹は間違いなく殺される。逃亡の手引きをした上に、世が世ならば皇帝なのだから。
 「仲間をみすみす殺したくはない。」小魚は言った。「それに、チケットは一人分しかないよ。お前、本当はこうなったとき、一人で逃げるつもりだったんだろう。その為に、用意していたチケットなんだろう?」
 「悪いな。」静かに竜血樹は言った。小魚はそれに首を振る。「別に責めてるんじゃない。ただ、俺達は三人いるんだ。一人分のじゃ逃げようがない。」
 くすり、と竜血樹は笑ったようだった。彼が怒ったところを小魚は知らない。厳しい声を出しても、決して怒りにはしない。同じように泣くこともないのだろう。それはある意味で無表情と同じだ、と小魚は思う。見ただけでは、何を思っているのかわからないのだから。
 「四人だったらもっとどうしようもない。それとも、そこまで俺に甘えるつもりか?俺はお前の双姉とは違うんだ。」
 小魚は言葉に詰まった。それを見て、竜血樹は更に言う。「早くしろ。お前が何とかしろ。三人の中で、男はお前だけなんだから。」
 「お前ってさ。」小魚は押し殺したような声で言った。「すっごい卑怯者だな。」
 竜血樹は頷いた。亜麻色の髪の毛が、さらり、と揺れた。「そう思う。」
 「でもさ。」小魚はその辺に転がっている荷物を掻き集めながら言った。目の奥から涙が溢れてくるのを感じ、我ながら情けないな、と思う。「お前って、すっごくかっこいい。」
 適当に三人の荷物を一つのバッグに詰め直して、小魚は振り向いた。竜血樹は綺麗な深い紫の瞳を細めた。多分これは、本当の笑顔だろう。
 「ありがとう。」
 果たして、どちらがそう言ったのだろうか。


 小魚が去るのを見届け、竜血樹は鈴華に目を注いだ。彼女は一応薄目を開いて、竜血樹の顔をじっと見ていた。生気のない瞳だった。「・・・カンメイに悪いことしちゃったな。絶対今頃泣いてる。」思いの他、しっかりとした口調だった。
 出来るだけ静かな声で、竜血樹は言った。「すまない。お前を助ける方法までは、俺も知らないんだ。」
 鈴華は首を横に振った。弱々しい動きだった。出血は、確実に彼女の命を削り取っている。助ける方法など、彼でなくとも知ろうはずがなかった。怪我をした本人は、それを誰よりもよく知っている。「・・・ううん、劉くんが悪いんじゃないよ。あたしがドジだったんだもん。」
 「いや。」柔らかく彼は言った。「俺がお前にあまりに申し訳ないのは事実だ。俺は今既に、お前が死んだその後のことを考えている。」
 鈴華は竜血樹の顔を見上げた。暗くて表情は見えなかったが、何か険しいことを思っているのは確かだった。
 ぽつり、と竜血樹は口を開いた。「なあ、お前はあいつ等の夢って知ってるか?」
 鈴華はきょとん、というような顔をした。「夢?」
 竜血樹は頷いた。鈴華は何か考えようとしたようだったが、意識がぼんやりとし始めているので、記憶に引っ掛からないらしい。それでも、首を振りながら視線を泳がせ、ようやく思い当たる節に当たったらしい。「・・・チャンさん達は知らないけど、カンメイは確か、歴史に残ることをやってのけてやるって言ってたよ。あのね、どうして社会科で歴史を選択しなかったかって、自分が出て来ない歴史を勉強する価値なんかないから、なんだって。」
 くすっと小さな声で竜血樹は笑った。「なるほど、らしいな。――願わくば、叶えて欲しい。」
 鈴華は首を傾げた。竜血樹が、それを見て答える。「どんな手を使っても構わないから、今のこの国を崩壊させて欲しい。欲を言えば、この国だけでなくここの西、俺達の本当の祖国も、東の海の上に浮かぶお前の婆様の祖国も、全部作り直してもらいたい。誰も飢えなくてすむ、いつどんな理由で殺されるかと怯えなくてすむ国――それが俺の夢だ。」
 「やっぱり劉くんは皇帝様なんだね。」眩しそうに鈴華は言った。もっとも、単に目が霞んできているだけかもしれない。「いい国が、夢だなんて。」
 竜血樹は首を振った。「そんなんじゃないよ。ただ・・・。」
 「ただ?」
 「子供の幸せを願わない親はいないってことだよ。」照れ臭そうにそう言った。
 そして、空を見上げた。薄い雲が掛かっていたが、明るい都会の空でも幾らかの星が見えた。西の空には、傾き掛けた細い月――繊月が掛かっている。
 「悪かったな、長話に付き合わせて。」竜血樹はそう言い、腰に刺した一発込めの古い銃を取り出した。フリントロック式、旧素乾王朝で幻影達の乱の折、ときの帝が所持したのも同型の銃だったと言う。「念の為に確認する。お前は、本当にいいんだな?」
 鈴華は精一杯頷いた。だが、とても弱々しいものにしかならなかった。「うん。」
 哀しいほどに優しい声で、竜血樹は尋ね掛けた。「何か、言うことはあるか?」
 鈴華は僅かに考えるような仕草をしたが、やがてのろのろと唇を開いた。「うん。・・・もうちょっと顔を近づけて。」
 立ち聞きするのは盗聴機だけだが、と竜血樹は思ったが、言われた通りに顔を鈴華のそれに寄せた。彼女は言う。「もうちょっと。」
 鈴華の細い息ですら掛かりそうなくらいに、竜血樹は顔を近付けた。「何だ?」
 ぎゅっと目を閉じて、鈴華は口の中で小さく呟いた。「・・・カンメイ、ごめん。」
 彼女はやっとの思いで首を起こすと、竜血樹の唇の横に自分の唇を押し当てた。そして、そのまましばらくじっと動かなかった。竜血樹もまた、黙って鈴華を支えていた。彼女の気持ちも、わからなくはなかったから。
 ようやく鈴華は唇を離した。そして大きく息を吐く。再び竜血樹は尋ねた。「まだ何かあるか?」
 「・・・ううん。」僅かに躊躇したが、鈴華は静かに首を振った。竜血樹は消え入るように小さな声で、そうか、と言った。
 そして、銃口を鈴華のこめかみに当てた。


 左右を見渡しながら走ることしばし、小魚はようやく姉の姿を視界に捕えた。大花は、うずくまる人影を抱くようにしてこちらの方向に目を向けていた。抱えられている小柄な人影は、考えるまでもなく誰だかわかる。
 ふと二人の足元に目をやると、そこに小さな金属光沢のバッヂが二つ落ちて、踏みにじられていた。大方、寛美が怒りに任せて引き千切ったのだろう。それで修まるはずもなく、彼女は大花の腕の中で肩を震わせて嗚咽を上げていた。
 大花もまた、気丈に堪えようとするものの、切れ長の釣り目に涙をいっぱいに貯めていた。その目を瞬かせて、夜の町を近付いて来る小魚を見た。
 「シャオユウ・・・どうしたの、その格好?」
 小魚は、ちらりと両腕に抱えた荷物に目をやった。強化プラスチック製の大きなスーツケース、腕にぐしゃぐしゃに引っ掛けた、何の変哲もない新品のジーパンとシャツ。いずれも咄嗟にその辺の商店から持ち出して来た物である。肩に掛けたブルーグレーのスクールバッグは彼自身がこの会場に持ち込んだ物だが、そのファスナー式の口の端には、鞘に収まったナイフが覗いている。そして、彼は腕に抱えているのと全く同じシャツとジーパンに着替えていた。
 小魚は、腕の服を大花に向かって投げてよこした。「タイホア、これに着替えて。」
 「どうして・・・。」尋ね返す大花の隣にスーツケースを置き、彼はナイフを使って彼女のゼッケンの紐を手早く切り取った。そして、崩れ掛けたおだんご頭を手早く解く。「ごめん。」
 小魚は、一息に大花の長い髪の毛を切り落とした。
 さすがに顔色を変えた大花は、何か言おうと弟の方を勢いよく振り返ったが、その自分と全く同じ顔から何かを汲み取ったらしく、足元に落ちた服を拾い上げ身に付け始める。思い切りよく服を脱ぎ捨てて着替えると、同じ身なりに同じ髪形になった双子はほとんど見分けが付かなくなった。
 小魚は、今度は放心したような表情の寛美を見た。彼女は、涙腺が壊れたように涙を垂れ流していたが、その瞳は凍り付いたような無表情だった。解けて乱れた凄まじい髪の下の表情に、思わず小魚はぎょっとする。だが、どことなく憐れを催す姿だった。
 「カンメイは、この中に入って。」小魚はスーツケースをカチリと開いた。中は随分と小さいが、寛美なら辛うじて入れなくもない。だが、彼女は黙ってその布張りの内部を眺めているだけだった。その瞬間、彼らの背後で音がした。
 ズギュン
 この会場内で最後の銃声だった。小魚も大花も思わず身を縮める。
 ようやく寛美に目を戻すと、彼女はスーツケースの中に顔を押し付けるようにして倒れ込んでいた。どうやら意識を失ったらしい。
 小魚は少し哀しそうな顔をしたが、すぐに寛美の身体を折り曲げてケースの中に押し込んだ。慌てて大花も手を貸す。
 空気穴があることを確かめて、パタン、と蓋を閉じると、小魚はスーツケースを、大花はスクールバッグを抱えて、共に立ち上がった。
 そして、暗い夜道へと足を踏み出した。



 夢を見た。
 夢の中では、淡い桜色の花弁が激しく散っていた。
 ふと足元に目を注ぐと、そこには小さな青毛の子猫が纏わり付いていて、それが微笑ましく抱きかかえようとしたら、するりと逃げられた。
 子猫の走る方向には、数人の人影が見えた。その中に一人、見覚えのある人物が見分けられた。近所のスーパーマーケットに買い物に行ったとき、よくレジを打ってくれる大学生くらいの若い男だった。最近ではすっかり見掛けなくなってしまったが、こんなところにいたのか、という気がした。
 不意に、向こうに行ってはいけない、という気がした。慌てて子猫を追い掛けようとしたが、どういう訳か足が縛られたように動かない。焦れば焦るほど、身体の自由が奪われてゆく気がした。
 子猫は軽く跳び上がると、その若い男の腕に吸い込まれるように入り込んだ。そして彼らはばらばらと、こちら側に背を向ける。
 やっとの思いで叫んだ。「スー!いっちゃ駄目!!」
 だが、若い男の肩越しに顔を覗かせた青い子猫は、ニャーンと一声鳴いてみせただけだった。そして人々はぞろぞろと、向こう側に歩いて行く。
 「お願い!いかないで、お願いよ!!」泣きながら叫んだが、人影は彼女を残して去って行った。
 激しく散る花弁で、程なく沢山の人影は見えなくなってしまった。
 残るのは、辺り一面の桜色と、彼女唯一人だった。


  Dreaming 完 




モドル | モクジ