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第五夜


 きらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいき
 らいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきら
 いきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらい
 きらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいき
 らいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきら
 いきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらい
 きらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいき
 らいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきら
 いきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらい・・・すき



   第五夜


 繊月は、会場内で一番背の高い建物の上から地上を見下ろしていた。崩壊した建物が幾つもあり街は半ば廃墟と化していたが、近代的に整った形はそのままだった。彼女はこの街で、あの瓦礫の劇場で、数日前までは働いていた。
 昔から、高いところは好きだった。義母に虐げられたとき、果てのない旅の途中にある風に慰められながら一人で泣くのは、いつも切り立った断崖だった。妹とよく絶壁まで上がって、ささくれた雲南の山々を眺めたものだった。『あの人』にこっそり会いに行くのも、あの崖の上だった。
 『あの人』はもういない。かつて、妹が参加させられているこのゲームに巻き込まれ、帰って来なかった。故郷にはもう帰れない。姉妹で追われてまもなく、焼かれてしまったのだから。
 この国に、外国人である自分達の居場所はなかった。だが祖国にも、自分達を迎え入れてくれる場所はなくなってしまった。もうどこにも、帰る場所はなくなってしまったのだ。
 帰るべきところを奪っていったもの全てが憎かった。自分達姉妹の運命を滅茶苦茶にした国が、人が、歴史が、憎くて堪らなかった。そして、それらを引き起こす原因となったものが、他ならぬ自分達の血統であることが哀しかった。
 だが、自分を憎むことは出来ても、同じ血を引く妹だけはなぜか憎むことが出来なかった。
 所々に小さく血痕が見えた。そしてそこに必ず伏せっている小さな人影も。
 妹は、極めて優秀な狩人のようだ。
 全てを奪ったあの国の当局に入れられた、銀色の目印に相応しい小さな狩人。


 「張さん。」美妃が膝を抱えて蹲っていると、頭の上から少し甲高い声が降って来た。顔を上げて見ると、明道がそこで緊張したような笑顔で立っていた。
 「あ、あのさ。」しきりにくせ毛の頭を掻きながら、上擦った声で彼は尋ねてくる。「隣、座ってもいいかな?」
 きょとん、とした顔で美妃は答えた。「いいけど。どうして?」
 「え?」その場に突っ立ったまま明道は、思いがけない問に固まった。
 「どうしてそんなこと訊くの?仲間なんだからいいじゃない。」当然、といった声で美妃は付け加えた。ようやく腑に落ちた、という顔をして明道は何度も頷いた。「そうだよね、俺ってば何変なこと言ってんだろ。あ、いつものことだから気にしないでね、張さん。」
 美妃は少しだけ怪訝な顔をしたが、すぐにまた膝に顔を押し付けてしまった。ちらりと見えた前髪の下の大きな目が赤かった。どぎまぎしながら明道は、その隣にそっと腰を下ろす。
 普段なら、思ってもみないことが平気で口から飛び出して、日白あたりに睨まれたり屏跳あたりに笑いの種にされたりしている明道だったが、肝心なときに限って言葉が出て来ない。泣いていたであろう彼女を慰めたいと思うのに、言いたいことは山のようにあるのに、咽喉の奥がつかえたようになって何も言えない。自分がもどかしくて堪らなかった。
 「鄭くん。」唐突に美妃が口を開いた。初め、自分が呼ばれたのだと思わなかった明道は、ちらり、と美妃を盗み見ようとして彼女と目が合い、思わず少し後退ってしまった。ちょっと眉をひそめた美妃を見て、慌てて体勢を整える。
 「な、何?」ちょっと声が震えたように思う。変に思われているのを痛いほど感じる。こんなとき劉みたいにちらっと無関心そうに目を流したり出来たら格好いいだろうなぁ、とふと考えたが、元々顔のパーツからして別の生き物だということに思い至った。
 「鄭くんはこの殺し合いゲーム、やっぱり怖い?」おずおず、と美妃は尋ねた。ふと明道は、英子の手当ての為に日白は水道のある方に行っていてここにいないし、玉環と屏跳は見回りに行っているし、もう一人の仲間、李 斗男(イ・ドゥナム)は公園の入り口で見張りに行っているし、今ここには自分と美妃の二人っきりということに気が付いて、再び慌てた。多分、明道が気付くよりずっと前に美妃はそのことに思い至っていたのであろう。気まずい空気を何とかしようと、無難な話題(それにしても、嫌な話題である。)を探したというところか。
 さっきの思考の流れから、明道は反射的に劉 飛竜ならどう言うかを想像した。彼なら、あのいつも透明で冷静な飛竜なら、こんなゲーム怖いすらと思わないだろう。きっとあの色のない顔でさっきの質問にも「別に」とか答えるのだろう。
 それに引き替え自分は、と思うと明道は少し惨めになる気がした。怖い、物凄く。玉環は黙っていてくれたが、午前中に彼女とはじめて会ったとき、自分は思わず道路端で拾った棒切れを振り回してしまったのだ。元々細い棒切れだったので玉環の肩に当たってすぐに折れてしまい、その瞬間に我に返ったが、我ながらそのことを思い出すと情けなくなる。
 玉環は、どうだろうか。こんな中でクラスメイトを助けようと足を棒にする彼女は。それに平気で付いて行く屏跳は、あちこちから応急処置具を失敬して来て怪我の手当てに当たる日白は、今見張りに立っている斗男は、怖くはないのだろうか。
 美妃はじっと明道の答えを待っていた。何も答えてくれなかったら間が持たない、そのことを案じているようにも見えるし、何かを試そうとしているようにも見えなくもない。
 何を?
 虚勢を張って、怖くない、と言おうかと明道は考えた。だが、嘘はすぐに見現されてしまいそうな気がした。
 「怖いよ。」ようやく明道は言った。たった一言言うのに、物凄く勇気がいった。しかし、同じ言葉をもう一度繰り返すのは意外と平気だった。「凄く、怖い。」
 美妃はほっとしたような表情を見せて言った。「わたしも、怖いの。よかった、ミーカンも皆も平気そうだったから、わたしだけかと思ってた。」
 「うん、俺もそう思ってた。」勇気を出して、本当のことを言ってよかったと、明道は心からそう思った。


 「別に身の上話をするつもりはないが。」
 そう前置いて、飛竜――もとい竜血樹は静かに語り始めた。「俺の父は、素乾第三十代目皇帝紂宗と瑛正妃の一人娘、鸞(ラン)公主が産んだ唯一人の子らしい。公主の亡命途中で生まれて、彼女の亡き後は代々王家で教鞭を振るっていた瀬戸氏のホーミンという男――まあ、これが俺を育ててくれた爺様だが――に養育され、共に亡命を成し遂げ、そこで俺の母と出会った。だから、俺は素乾のクオーターってことになるな。」
 寛美は瀬戸 甫民(セト・ホーミン)の名に聞き覚えがあった。確か、まだ自分が幼い頃に、父が深刻な顔で母に何かを話していたとき、その名が出て来たはずだ。弟妹と遊ぶのに飽きた寛美が首を突っ込もうとしたら、いつもは優しい父が物凄い剣幕で叱り付けてきたので相当に驚いた覚えがある。
 (そうか、Mr.リューの育ての親って工作員だったっけ。)
 彼女の家では、なぜか工作員という単語が異常なほどに忌み嫌われてきたのだ。まだ寛美の物心が付く前に何度も家を変わったことや、彼女が明晰な頭脳の大半を譲り受けた父親もまた、彼女同様に銀色の髪の房が一握り入っていることと、何か関係があるのではないかと寛美はこっそり踏んでいた。
 「・・・あんたの婆様はそれじゃ、どこに逃げ込んだの?」竜血樹の亜麻色の髪にちらりと目をやって、大花は高ぶる声を抑えるように尋ねた。
 竜血樹はにこりともしないで答えた。「旧ソ連から海に出たらしいが。」
 「じゃ、アメリカ?それともイギリス?」大花は竜血樹のその淡い髪の毛の出本を尋ねようとしているらしい。だが、竜血樹は少し言い渋った。
 直感的に気付いた。おそらく、知られたくない事情があるのだろう。今の彼に思い当たる節と言えば、寛美は一つしか知らない。
 あんたの鳳凰様は、そこにいるの?竜(皇帝)の隣に唯一並び立つことが許される鳳凰(皇后)は、あんたのもう一つの故郷に、殺し合いゲームに巻き込まれたあんたを残して子供と一緒にお里帰りをなさっているの?
 言おうと口を開きかけて涙が口に入り、その苦さで寛美は我に返った。彼を追いこんで、自分は一体何をしようと言うのだ。彼が自分の手の中にいないことがそんなに悔しいのか。自分の情けなさに、小さな声が漏れた。
 ふと、寛美は自分の髪に誰かの手が置かれたのを感じた。ぽんぽん、とその手は軽く頭を叩いた。くすぐったいほど優しい掌だった。
 寛美は、自分の紅い唇を強く噛んだ。金臭い血の味がした。

 「・・・そんなの、どうだっていいよ。」耳に馴染んだ声が響いた。おっとりとした鈴華の声だ。
 大花は少しむっとしたようだった。「どうだっていいってことないでしょ。知識はあった方が無条件にいいものだって楊(ヤン)先生も言ってたじゃない。」と、担任教師の言葉を引っ張り出す。そう言えば、お人好しの先生は自分の教え子のクラスが『プログラム』に巻き込まれて、何を思っているだろう。
 「世の中には、知らない方がいいこともあるって兄貴が言ってたもん!」いつになく強気な調子で鈴華は反論した。「考えてもみてよ。あたし達の言ってることってぜーんぶ盗聴されてる訳でしょ!そんなに根掘り葉掘り劉くん――じゃなくて素乾くんかな・・・のこと訊いて、もしもバレちゃまずいことが知られちゃったらどうするのよ。大事な人が殺されちゃったら、どうするのよ!死んじゃった人は生き返らんないんだよ!!」
 鈴華は涙ぐんでいた。兄を殺されたときのことを思い出したのかもしれない。あまり迫力はないが必死の形相の鈴華に睨まれて、大花は少なからずたじろいだ。その両方を見比べて、小魚が竜血樹を見上げた。「わかった。だったらその説明はいらない。ただ、やっぱりこれだけは気になるから教えて欲しい。」
 竜血樹は小魚に目をやった。その目を見ながら小魚は尋ねた。「どうして、わざわざこの国に来たんだ?そんなことしなかったら、お前の両親もむざむざ殺されることはなかっただろうに。」
 「知るか、そんなこと。」竜血樹の反応は素っ気無かった。「親に連れられて戻って来た国は、ここじゃなくて隣の中華連邦だよ。両親揃ってそこで死んだから先生にこの国に連れてこられた、それだけのことだ。」
 それから、ちょっとだけ意地悪っぽい笑みを浮かべて見せた。「そう言うお前こそ、何を思ったかわざわざこんな危険な国に亡命してきたんだろう?」
 小魚はちょっとだけ警戒したように腰を沈めた。大花は驚いたように目を見張る。「知ってたの?」
 「知らなかったのか?このクラスの大半は、外国人だ。」こともなげに竜血樹は言った。
 袖で顔を拭って寛美は顔を上げた。きっと、二目と見られない顔をしているに違いなかったが、構う必要はなかった。「知ってたわよ。」
 竜血樹を除く全員の、驚いた視線を感じた。目立つことは今に始まった訳ではないから、別に何も思わなかった。
 「あたしとスーとMr.リューとMs.パクと、わかるだけで四人が外国に何がしかの血縁を持っているのよ。このクラス、おかしいに決まってるじゃない。」
 そして、ようやく竜血樹の目を見た。よく見ると彼の瞳は、深い紫藍をしていた。もしかしたら自分は、はじめて彼の目を見たのかもしれない。
 「質問攻めね、Mr.リュー。」
 うっすらと赤くなった寛美の目と、竜血樹の柔らかい視線がぶつかった。


 「ミ、ミーカン、悪かったよ。俺が悪かった。謝るから、一人で行くのは止せって。な、許してくれってば。」
 屏跳は玉環に噛り付くようにして付いて行った。だが、一方の玉環は全く無視を決め込んでいる。足取りはふらついているが、それでもくっ付いてくる屏跳を険しい顔で振り切ろうとする。
 懸命に屏跳は玉環を引き止めようとする。息を切らせながら玉環は先に進もうとする。そのうち、覚悟を決めた屏跳は立ち止まり、玉環の腕を思いきり引っ張った。それでも引きずってでも進もうとしていた玉環は、さすがに動けなくなって立ち止まった。
 「放してよ。」やっと口を開いた玉環の口調は、冷淡だった。
 「やだ。」子供っぽく屏跳は言った。「やだやだやだ。」
 突き放すように玉環は言った。「あんたみたいな奴とこれ以上一緒に行動出来ない。どこでもあたしの目の届かないところに行って。」
 屏跳は弱り果てて呟くように言った。「ごめんって言ってるだろ。そんなに怒るとは思わなかったんだよ。だって、皆きっと思ってたこと・・・。」
 「だからどこでも行ってって言ってるでしょ!」鋭い口調で玉環は撥ね返した。二の腕に掛けられた屏跳の手を、乱暴に振り解く。「あんたがそんな奴だってわからなかったのはあたしの落ち度よ。だから好きにしてって言ってるの。」
 「ミーカン。」
 「あんたみたいな奴が幼馴染みだったなんて、情けないわ。それでよく寺の息子を名乗れるわね。」一気に言うと、息が切れた。ふら、とよろけて玉環はたたらを踏んだ。慌てて屏跳が手を貸そうとしたが、玉環は身を捩って避ける。
 屏跳は悲しそうな顔をした。「今度からもう少し言葉を選ぶさ。もう二度とあんなこと言わない。だから、ミーカンも俺の言うこと聞いてくれよ。でないとあんまりにも感情的過ぎるよ、らしくないよ!」
 今度は玉環の腕を掴むことが出来た。屏跳は少しだけほっとして、少し背の高い彼女の顔を上目使いに見上げた。玉環はばつが悪そうに脇に目を反らす。
 そのうち玉環がぽつりと呟いた。「ごめん、かっとなったのだけは謝る。」
 ほうっ、と安堵の溜め息を吐いた屏跳に向かって、玉環はもう一つ言葉を重ねた。「でも、さっきあんたが言ったことは、忘れられる内容じゃないから。」
 込めた力が緩んだ拍子に、屏跳の腕の中から玉環は抜け出していた。方向を少し変えて歩き出した幼馴染みの後をとぼとぼと付けながら、彼はたった一言しか言うことが出来なかった。
 「・・・ごめん。」

 斗男は一人、公園の入り口で猟銃を下げて立っていた。最盛期に比べると銃声はうんと減ってきたものの、それが意味するところを思うとかえって怖かった。本当は見張りに立つのも怖くて堪らなかったのだが、女子の玉環や美妃ですら当番になると不安そうな顔をしながら、それでもきちんと自分の役割を果たしていたのを見ると、自分だけ嫌、と言うのもはばかられた。早く交代の時間にならないか、と一心に念じていたそのとき。
 背後から肩にぽん、という感触が乗った。斗男は一気に縮み上がり、迷わず勢いを付けて猟銃を構える。
 そこに立っていたのは、日白だった。一瞬目を見張ると、斗男はほおっと息を吐いた。長い猟銃を杖代わりにして、力の抜けた上半身を支える。
 「どうした?」日白は低い声で言った。元々強面に相応しい少々どすの聞いた声の持ち主だが、更にその声を抑えているようだ。周囲の「敵」を気にしての無意識での行動だろう。
 やれやれといった調子で、斗男は擦れた声を絞り出した。「どうしたじゃないよ。イルこそどうしたの、わざわざこんなところまで。」
 怪訝そうな顔をして、彼は色黒の手首をにゅっと突き出した。もう片方の腕の指で示された先には、くすんだ銀色の腕時計があった。「交代の時間だろう。」
 斗男はぱっと顔を上げた。そう言えば、ずっといつになったら交代になるのかと念じ続けていたものの、精神的に時計を見るゆとりがなかったのだ。不謹慎とは思えども嬉しさを堪え切れず、いそいそと彼は猟銃を日白に渡した。「あ、ああ。それじゃよろしく頼むよ。気を付けてね。」
 いつもの仏頂面で日白は、斗男が持つと随分重そうに見えた猟銃を軽々と受け取った。これで自分の任務は引き継いだ、と斗男は本部へと戻ろうと足を運び掛けた。
 不意に、思い出したような日白の声が斗男を引き止めた。「ドナム、お前すぐ本部に戻るだろう。」
 斗男は立ち止まって振り返った。「うん。」
 日白の言葉に取り立てて訛はない。だが、いつも「ドゥナム」ときちんと発音出来ず、彼は「ドナム」と呼ばれていた。初めは変な感じがしたが、慣れてくると取り立てて言うほどのこととも思わなかった。
 「だったら張かミョンドに、孫を頼むよう伝えてくれ。」少し戻って来る斗男に彼はぼそぼそと言った。すぐに斗男は、彼が美妃と交代する寸前に、血塗れの英子が運び込まれて来たのを思い出した。そして、日白の青かったはずのゼッケンが真っ黒になっているのに気が付いた。多分、血が付いたせいで変色したのだろう。白いシャツも赤く染まっているのを見て、何となく申し訳ない気がした。
 斗男は頷いた。「何なら俺が代わりに孫に付いてるよ。」その方が、見張っていたり、反対に何もしないでいるよりずっと気が楽だろう。
 日白は小さく言った。「ああ、頼む。」


 「そもそもどうしてこの国で鎖国政策が行なわれるようになったのか。食糧事情から考えたら、とてもそんな無謀な真似出来るはずないし、事実食料の87%を外国との不平等貿易に頼ってるのが現状よね。にも関わらず政府はヒステリックに乱暴な外国人排斥を行なっている。そしてもっと謎なのが、そこまで迫害を受けながらまだこの国を目指す外国人がいるってこと。主に――って言うか、ほとんどが中華民連邦の人間よね。捨ててきた母国で、一体何が起こっているのか。――ちなみに、かく言うあたしもそのクチだけど、何もわからない。あんたなら、『先生』から何か聞いていないの皇帝陛下?」
 誰が口を挟む余地もなく、寛美は一息に語った。涙で潤んだ声だったが、対峙するものの肌を切れそうなほどに鋭い眼差しと妥協した解答を許さない追究は健在だった。そしてそれらは全て唯一人、竜血樹その人に注がれていた。もっとも、並大抵の人間には到底、受け止めることが出来る訳もなかったが。
 息を飲んで、鈴華は寛美の拭いもしない涙で濡れた顔を見詰めた。息を殺して、大花は竜血樹の表情がわからない端正な面を掠め見た。息を詰めて、小魚は二人の間に流れる張り詰めた空気を感じていた。
 一瞬か、永遠か。ようやく竜血樹は口を開いた。
 「この国で鎖国政策が行なわれるようになったきっかけは何だ?」
 「第二次世界大戦。」間髪入れずに寛美は答えた。声音にまで研ぎ澄まされた険があった。
 対照的に、穏やかな声で竜血樹は言った。「そう。裏を返せば、それまではこの国も開国されていた、ということになる。そして俺の祖母が亡命したのも、やはり六十年前・・・大戦中だ。」
 睨むように寛美は竜血樹を見上げた。「それと関係があるの?」
 「大有りだ。第二次世界大戦中、中華とこの国、韓半民国――旧大韓帝国は手を組んでスーニャンの祖母の祖国、大東亜共和国に抵抗した。やがて戦況が大東亜寄りに傾いてくると、今度は敵国から積極的に移民を受け入れた。まあ、要は隣国だと言うのをいいことに人質をさらって来た訳だ。だが、その混乱に乗じてやばい移民も混ざり込んで来た。いや、元々混ざっていたのが明らかになった、と言うべきか。」
 そして、彼は小魚に目をやった。「そもそも、世界史で習う内容は矛盾していたと思わないか?1903年に始まったはずの素乾狩りから逃れようとした人間が、どうして1945年から行なわれる鎖国で殺されるんだ?」
 「それは・・・。」小魚は答えることが出来なかった。それが何を意味するのか、理解しようと試みたが、常識に邪魔されて理解し切ることが出来ない。
 竜血樹は、自ら解答を提示してみせた。「四十二年間、この国は旧素乾の亡命先として十分機能していた、ということだよ。戦時中まで俺の祖母はこの国にいたんだ。だから俺は、それが先生の来韓理由だと解釈している。あくまでも推測だが。」
 「それじゃ、何故・・・。」寛美は更に追究した。「鎖国が遂行されたの?」
 ふっと竜血樹は目の力を緩めた。少し疲れたらしい、彼ではなくて空気が。その後、あまりにも場に不釣合いな穏やかさの笑みを浮かべた。「この国で、戦前第三位に多かった姓って知ってるか?」
 不意に全く予想していない質問が来て、寛美は一瞬面食らった。何がしかの意図はあるのだろうが、それを汲み取ることが出来ないまま首を横に振る。
 「王(ワン)って言うんだ。」笑みは穏やかなままだが、その瞳に鋭いものがよぎるのが見えた。「誰も知り合いにいないだろう。」
 「聞いたこともないよ。」鈴華が訝しげに口を入れた。
 竜血樹の口調が急変した。「当然だ。六十年前に死に絶えたはずなんだから。」
 寛美の視野の端で、双子の顔色が変わった。

 竜血樹は少し目を伏せた。塞いだ訳ではないのだろうが、長い睫毛に遮られて色の濃い瞳が更に翳ったように見える。
 その淡い色の睫毛の下から瞳を覗き込むようにして、寛美は彼を見た。「それは、何を意味するの?」
 「それまで二百万人いたと言われる王氏が、少なくとも今、統計上では一人もいない。どころか、系図すら全く残っていない。気合が入っているだろう。」淡々と、しかし激しい憎悪を含んだ口調で彼は言った。
 寛美はわずかに首を傾げた。「どうして?」
 口許に貼り付いたような笑みを浮かべながら、竜血樹は軽く双子に目をやった。彼と目が合うと同時に、双子は一瞬怯えたような顔をする。「あの二人なら、多分説明出来るだろう。当事者のはずだから。」
 寛美はすぐに詰問の眼差しを向けた。おずおずと鈴華も目を向ける。渋った様子の二人だったが、覚悟を決めたように大花が口を開いた。「王斉美(ワンセイメイ)って、知ってるでしょ。」
 「うん、槐暦帝の時代の官僚でしょ?」首を縦に振りながら、鈴華は答えた。「幻影達の乱のとき、王朝側の将軍だったよね。確か戦死したはずだけど。」
 大花は開き直ったように腰に手を当てた。「微妙なところじゃ違うけど、まあそんなもんよ。要するに、素乾側の人間だったってこと。」
 「で?」寛美は急かした。大花が少し顔をしかめる。
 代わって、小魚が言葉を継いだ。「しかも、立場的にかなり幻影達に楯突いたから、素乾狩りではその子孫が真っ先にエントリーされたらしい。ただ、乱から狩りが始まるまでざっと三百年かかった訳だから、系図なんかは随分滅茶苦茶だった。でも、狩人は一人でも多くの獲物が欲しかった。」
 寛美はぞっと二の腕が粟立つのを感じた。それを見て、小魚は言う。「そうなると、何が始まる?」
 「乱獲。」きちんと発音出来たか自信がなかったが、自分の声もよく聞こえない。目の回りがぴりりと引き攣った。
 大花がうなじに手をやりながら頷いた。「捕まる側は堪ったもんじゃないわよ。当然逃げる。どこに?近くに。近くって?この国。どうしようもなくなって、やむなく改姓した人も多かった。それでも暴かれた人が大半だったけど、あたし達の爺さんは、どうも悪運には恵まれていたようね。」
 「逃亡者は王氏に限らなかった。」竜血樹は言った。「他の素乾狩りの獲物達もこの国に逃げ込んだ。――初めはこの国も目をつぶっていたんだ。知らない、と逃亡者を黙認で通していた。ところが、そこに戦争が始まった。」
 寛美は脳裏に世界地図を思い描いた。巨大なユーラシア大陸の東に広がる大国、中華連邦。その隣に摘んでくっ付けたような小さな半島が、この国だった。正しくは小さな半島を更に南北に国境線が横切っている。こんな小さな小さな国は、隣の大国にとっては取るに足らないものかもしれない。だが・・・。
 「この国が生き残る為には、中華と否が応にも手を組まざるを得なかった。さもないと、中華自身に潰されるんだから。ところがそれをいいことに、中華は様々な問題を吹っ掛けてきた。その中の一つが、旧素乾虐殺だ。」
 竜血樹と真っ直ぐに向かい合っていた寛美は、彼のその目の強さに気圧されてたじろいだ。だが、受け止めなくてはならない。寛美は両足に力を込めた。
 竜血樹は極力感情を殺した声で話そうとしたが、その調子には殺し切れない激情が滲み出ていた。「根拠は何もない、ただ王氏というだけで多くの人間が虐殺された。王氏だけじゃない、怪しいと見られた人間はことごとく中華からの命令で屠られていった。戦死者よりも、虐殺の犠牲者の方がこの国ではずっと多かった。だから、二度とこんな『面倒』を起こらないようにする為に、鎖国が敷かれた。それが今に至る――これが俺の知る全てだ。」
 「・・・ありがとう。」大きく息を吐きながら寛美は礼を言った。どっと疲れが噴き出して、思わずぎゅっと目を閉じる。
 誰もが黙っていた。ざわざわと風が落ち葉を吹き飛ばしていく音だけが、しばらく全員の鼓膜を震わせていた。
 髪の房が顔に掛かり、掌で掻き揚げて寛美は目を開いた。
 鮮やかな銀色のメッシュが世界を横切っていた。


 気が付くと、英子は白い布の上で毛布を掛けられていた。はっきりとしない頭で状況を掴もうとしたが、思考が解れたように少しも纏まらない。
 「・・・ここは。」重い唇を押し上げて言葉を出してみた。死んだとしたら自分は間違いなく天国に行ける、という自信はなかったが、地獄に落とされるほど悪事を重ねたつもりもなかった。そういう自分に、ここはある意味で相応しかったかもしれない。
 うっすらと目を開けると、葉を幾らか残した細いエノキの枝が見える。首を左に倒すと、公園によくあるようなコンクリートの水飲み台がある。その下には小さな段差があって、自分の下にも生えているであろう茶色く枯れかけた芝生がそこで絶え、向こう側にただの土が敷き詰められている。
 あの世って、思ってたよりも平凡なところなんだな、と英子は思った。これじゃまるで、どこにでもある公園のようだ。
 もっと確認してみようと思って首を反対側に向け、英子はそこで硬直した。誰か男子がうずくまるようにして眠っている。顔は見えないが、背中の赤いゼッケンには見覚えがあった。同時に、英子の脳裏に意識を失う一瞬前までのことが急速に甦ってきた。
 気を付けていたのに、物凄く神経を尖らせていたのに、突然飛んできた銃弾に全く気付かなかった。激しい音に驚いて振り向くと、誰か男子が銃を自分に向けて構えていた。撃つつもりだ、と思って避けようとしたら急に脇腹が痛くなって目の前が霞んで、そのときになってはじめて、彼は撃つつもりではなく撃った後だったのだと知った。
 その姿に似ている気がする。髪の長さや体格、赤いゼッケンがそう言えば、こういう感じだった気がする。
 誰だかよくわからないが、こいつはわたしを殺してその後自分も何らかの事情で死んでしまったのだと思う。もしかしたら、まだわたしは生きていて、こいつがここに連れてきたという可能性もあるかもしれないとも考えたが、それは少し想像に難かった。
 どちらにしても、このままここにいたらいずれ地獄が待っている。そう英子は確信してしまった。逃げなければ、そう確信してしまった。
 全身がちぎれそうに痛んだが、英子はそろそろと音を立てないようにして身体を起こした。毛布をはね除けて、這うようにして動き始めた。
 英子は、玉環のことを覚えていなかった。

 ここまでに、三人の死体を見付けた。一人は刺し殺されたようだったが、もう二人は銃で撃たれていた。額とこめかみに指の太さほどの穴が開いており、そこから地面に向かって血液が流れ出した跡が黒く凝固していた。三人とも目を大きく見開いたまま事切れていたので、玉環はせめてもと思い仰向かせ、目を閉じさせた。出来れば手も組ませてやりたかったが、不自然なポーズのまま硬直が始まった死体相手では、それは無理な注文だった。玉環が処置を済ませると、その少し後ろから付いて来ている屏跳が手を合わせ、短い経文を唱える。それが彼らに出来る精一杯の、かつてのクラスメイトへの供養だった。
 玉環は屏跳を全くいない者として扱った。完全に無視した訳である。彼女の後ろをとぼとぼと、歩調を合わせて一定の間隔を空けて付くいて行く屏跳の表情は悲痛だった。謝って許されるなら、たとえ百万回でも謝罪する、そんな思い詰めた表情をしていた。
 そして更にその後ろ、二人は全く気付いていないが、小柄な江葉が物陰に身を潜めながら付けて来ている。構えたショットガンを決して下ろすことはないが、少なくとも前方の二人相手には、まだ火を吹くつもりはなさそうだった。注意深く周辺に目を配り、不審な物陰を見掛ける度に足を止め、ガンを構えていた。
 ふと、江葉が路の向かいの建物に目をやった。そこを黒い人影がよぎったように見えたのだ。思わず動きを止めて凝視する、その一瞬の隙のことだった。
 パン
 乾いた激しい銃声がした。はっと江葉が我に返ると、前方で玉環と屏跳が硬直している。何が起こったのか、まだ理解出来ていないようだ。まずい、と江葉は内心で舌を打った。出遅れた。急いでガンを持ち直したが、その間に再び銃声が響く。
 パン、パン、パン
 自分達が置かれた状況を理解したのは、屏跳の方が圧倒的に早かった。茫然とする玉環の背中に、彼は突然飛び付いた。ふら付いていたところに不意打ちを食らって、玉環はものの見事に前のめりに倒れ込んだ。うつ伏せに転んだ玉環の身体の上から、屏跳はどうしたことか退けようとする気配がない。「テュ、テューチョン、何!?」彼の身体の重みが堪え、喘ぐように玉環は尋ねたが返事がない。
 ガン、ガン
 唸るような激しい音がすぐ傍から聞こえ、玉環は震え上がった。「テューチョン、退けて、重いよ。」再び言ってみたが、やはり返事が返らない。
 江葉はちらりと倒れた二人に目をやりながら、手早く次のカートリッジを入れる。迂闊だったが、向こうもそれなりに油断していたらしい。取り敢えずは手応えがあった。向こうが何人いるのかここからは見えないが、江葉が弾の飛んで来た方向で射撃者を算出することが出来ることを知らないのは致命傷のはずだ。
 だが、こちらも敵を笑えない。一人を犠牲にした。
 パン、パン、パン
 今度は全て江葉狙いだったが、あっさりと江葉は身を交わした。計算通りだ。敵は二人、一人は今さっき潰せた。
 「テューチョン、聞いてるの!?テューチョン!?」息を詰まらせながら叫んだ玉環は、返事の代わりに耳元から小さな呻き声を聞いた。そしてようやく、背中から首筋を濡らす液体の存在に気付いた。ぎょっとして重い自分と屏跳の身体をゆっくりと起こす。ごく軽い衝撃と共に、屏跳の身体が玉環の上から地面にずり落ちた。半身を腕で何とか支えて後ろを振り返り、玉環は悲鳴を上げた。
 屏跳が、血に塗れて横たわっていた。自分の血に沈み、どこが傷だかすらわからないほどの状態で、彼は身体を痙攣させていた。
 思わずその肩に手を掛ける。「テューチョン!!」
 彼は微かにそれを避けるように身を捩り、細く荒い息を吐く。はっとして玉環は手を離した。頭の中が真っ白になり、どうしようという言葉だけが頭の中で渦を巻いていた。ただ茫然と硬直する。
 我に返ったのは、屏跳がごく僅かに薄目を開いて何かを言おうとしているからだった。擦れた息の下で、声にすらなっていない。
 「何?」玉環は彼の口許に顔を近付けた。どうしたことか血が一滴飛んで、玉環の頬を汚した。
 「・・・めん。」屏跳の目尻から、血に混じって透明な液体が伝った。再び彼は呟いた。今度は何とか聞き取れた。
 「・・・ごめん。」
 ガン
 狙いを絞って江葉は引き金を引いた。手応えがあった。念の為にもう一発撃ち込む。
 ガン
 敵の気配はそれで、完全に絶えた。

 斗男は薄目を開けた。疲れて眠かったけれど、自分の役割は果たさなければ、と重い瞼を押し開けた。
 そして、細い視野の中から英子が消えているのに気付いた。毛布がぐしゃぐしゃにはね除けられている。血痕は僅かにあるが、視野の中にどこにも彼女の姿がない。慌てて彼は跳ね上がって目を見開いた。
 きょろきょろと左右を見渡すと、這うようにふらふらと歩く英子の姿が背の低い植木越しに見付かった。
 斗男は顔を歪めた。「何やって・・・。」
 びくっと英子が身を縮めた。そして恐る恐る振り返り、斗男と目が合った。元々出血から貧血を起こしているらしく青褪めた顔色だったが、その上更に血の気が引いたように見える。
 そして斗男が驚いたことには、そのまま彼女は傷付いた身を引きずるようにして逃げ出したのである。
 思わず斗男は後を追い掛けた。「ねえ、ちょっと待てよ。」
 それを見て、更に怯えたようにずるずるといった様子で英子は逃げる。だが、あまり早くは動けないらしく、斗男の足でもすぐに追い付くことが出来た。取り敢えず捕まえて、もう一度手当てをし直さなくてはならない。彼は腕を伸ばして英子を捕まえようとした。
 「来ないで!」英子は引き攣った声で叫んだ。この声は全く怖くはなかったが、その怯え切った様子に驚いて斗男は一瞬足を止めてしまった。それを見ながら英子はそろりそろりと後退る。その真後ろに、低い柵が見えた。
 柵の下には、川がある。
 「やめろ!!!」斗男は思わず目を剥いて叫んだ。それが英子にとって決定打となった。くるっと振り向いて、ぼろぼろの身体で柵を乗り越え・・・。
 不意に少し不安げな声がした。「どうしたの?」
 姿を現した美妃と明道と、斗男の目の前で英子の姿がふっと消えた。

 斗男の叫び声と激しい水音を遠くで聞きつけ、日白は眉をひそめた。(何があったんだ?)
 見張り位置から公園の中を覗いたが、当然何も見ることが出来ない。すぐにでも掛け付けるべきかとも思ったが、この位置を今離れることには物凄い不安があった。万一誰かが乱入して来たら、大変なことになる。彼は少し首を横に振って、思い止まろうとした。
 そこへ、女の悲鳴が響いて来た。美妃の声のようである。何か叫んでいるようだったが、何も単語が聞き取れない状態だった。
 一瞬躊躇の後、日白は銃を投げ捨てて、中へと向かって駆け出していた。

 「どうした?」日白は声がして来た、公園沿いの川に面した柵へと駆け付けた。気休め程度の落下防止用の手摺りに、美妃と明道が縋り付いている。美妃は何か川の中に向かって一心に叫んでいた。その隣の明道が、日白にやっと気が付いた。
 「何があったんだ。」急き込むように日白は尋ねた。その顔を見上げながら、これ以上ないくらいに参った顔で明道は答えた。「よくわからないけど、英子が川に落ちたんだ。今ドゥナムが助けに行ってるんだけど・・・。」
 日白も川の中を覗き込んだ。すぐに目に飛び込んで来たのは、川面を血で染めてうつ伏せに浮いている英子と、それを抱えようと必死に水を掻く斗男の姿だった。英子の周りの様子から、せっかく塞いだ傷口が完全に開いてしまっていることはわかる。どころか、彼女の姿は丸っきり水死体だった。
 (駄目だな。)獣医の息子として、幾つもの動物の死と直面して来た彼は直感的に確信した。手当てをしていたときから、この設備ではまず無理だろうと思っていた。言葉にするのはさすがにはばかられたが、彼の直感は時に、不気味なほど当たる。
 ただ気になるのは、どうして英子が川に転落したかだった。動ける状態ではないし、普通に考えたら助けてもらったことはわかるはずだと彼は考えた。でも、ならばどうして。
 考えている内に、斗男が英子の身体を掴んだ。そして肩に担ぐと、土手の急な斜面を登り始める。美妃は思いきり腕を伸ばして手助けしようとするし、明道は本部に用意してあったロープをするすると下げた。その瞬間。
 カタカタカタカタ
 耳障りな機械音がした。それと同時に、身を乗り出していた明道がそのままずるりと柵を越えて落下する。激しい水飛沫が上がった。
 慌てて美妃が川を覗き込むと、仰向けに浮かんだ明道は何が起こったかわからないような顔をしていた。そして、じわっと水面に紅いものが広がる。
 しまった、と日白は歯軋りした。あまりにも自分は馬鹿だった。自分も銃を捨ててしまった、ここにいる全員は完全な丸腰だった。
 美妃が不安げな目を日白に送る。だが、自分の正面と対峙した日白はそれに全く気付かなかった。
 マシンガンとクロスボウと、日白が捨てた火縄銃を構えた三人組がそこにいた。


 「これでわかったわ。」寛美は頭を掻いた。「確か、今現在プログラムが行なわれているのは四国。東の島国大東亜共和国と、ここの南の南鮮民国、この国韓半民国、それから中華民連邦よね。大東亜共和国だけは対象者が義務教育課程中って聞いたけど、後は全部高等教育――つまり、知識階級予定者なのよね。」
 竜血樹は黙って頷いた。大花と鈴華は何となく顔を見合わせる。
 寛美は嬉々としたようにも取れる口調で先を急いだ。「人を殺すのにも経費は必要だもの、財政困難のこの国は、人を処刑するのに疲れてきたのよ。それに、国家が本当に恐れているのは実は前政府じゃない。現政府の反対分子よ。そして最も警戒するべきなのは、前政府の人間ではなくて現政府の矛盾に気付いてしまう恐れのある人物。一番近道なのは、知的階級だと私は思う。」
 竜血樹が薄く微笑んだ。今のところは当を得ているらしい。うなじで髪を掻き揚げて、寛美はポケットから髪止めを取り出す。「在韓外国人全員を殺すのは数が多すぎるのかもしれない。実数はわからないから何とも言えないけど。でも、外国人と危険人物の共通項になると、相当に数が絞られてくるわ。そして、極限まで来ている国民の政府への不満を抑え付ける為に、該当者を見せしめにする。――それがプログラムの本当の狙いではないかしら、Mr.リュー?」
 「よく出来ました。」竜血樹はぱちぱちと手を叩いた。「それでこそ教師泣かせのセニャンだ。その銀のメッシュも伊達ではないな。」
 「ちょっと待って!!」大花が叫んだ。「でも、だとしたらやっぱり参加者を皆殺しにしなくちゃ意味がないんじゃないの?確かにプログラムでクラスが全滅することもあるんだろうけど、関係ない子も巻き込まれたり、反対に関係あるはずの子が巻き込まれなかったりするんじゃないの!?本末転倒じゃない!それに、プログラムだったら一クラスにつき最大五人、生存者がいるはずなんでしょう!」
 「五人だったら、殺すのにも対して苦労はしないんじゃない?『最後まで残ったけど、怪我が元ですぐに死んだ』ってことにすればいいじゃない。クラス編成の時点で、関係者ばかり集めておいたら、問題はないわ。要するに、あたし達は自分の素性を上手く隠したつもりでも、国にはずっと前にバレてたってことよ。」
 鈴華がぞくっと肩を震わせた。反射的に『可哀想に』と思う。おかしな話だ。巻き込まれたという状況は寛美も鈴華も変わらないはずなのに。
 「ただ。」寛美は言った。「一つだけ腑に落ちないの。どうしてプログラムなんて遠回しな手を使うのかしら。ぶっちゃけた話、どこかに穴掘ってクラス全員を埋めちゃうとか、ナチスみたいに毒ガス使うとか、その方があたし的には合理的と思うんだけど。」
 大花がうんざりとした顔で言う。「何が合理的よ。」
 竜血樹が小魚に目配せした。小魚は少したじろいだが、渋々承諾したようだった。
 小魚は目を反らせながら言った。「西洋史で習っただろ?コロシアムだよ。」
 鈴華が眉根を寄せた。「どう言う意味なの?」
 「ほら、古代ローマとかのキリスト教徒の迫害で、競技場の中に人を沢山入れて殺し合いをさせるってのがあっただろ?あれの現代版みたいなもんじゃないかな。」小魚は腕を組んだ。これ以上ないくらいに嫌そうな顔をする。「やり口そのものが卑怯だけど、最も嫌なのは『こいつらは仲間同士で殺し合う』 ということを主催側が確信している点かな。事実否定は出来ないんだけど・・・。」言い掛けて小魚は言葉を切った。
 顔色一つ変えずに竜血樹は足を一歩後ろに動かした。その鼻先をクロスボウが掠める。
 大花が鋭い金属音を立てて鉄扇を取りだし、広げた。そしてそのまま一息に矢が飛んで来た方向へと駆け出す。見えるのは植え込みのみだったが、大花の目は完全に敵を捕えているようだった。
 もう一本矢が飛んで来たが、大花は大きく跳び上がって矢を踏み付けにした。植え込みの直前で鉄扇を構えた右腕を勢いよく伸ばす!
 低い悲鳴のようなものが聞こえたが、すぐに絶えた。低木が遮ってくれたおかげで大花には一滴の血も飛ばなかったが、引き抜いた鉄扇の先には血糊がべったりと着いていた。多分、血のたっぷりと溜まった池に先端を浸したら、こんな具合になるだろう。
 大花は低く呟いた。「死にたくないもの。」元々低めだった声が、更に擦れていた。「誰だって、こんなゲームで死にたくないもの。」
 「誰だった?今の。」鈴華が恐る恐る尋ねた。寛美の肩に手を乗せ、痛いほど掴む。大花は首を横に振りながら言った。「敵。」
 「コロシアムが行なわれるのは、開く側が参加させられる側を明らかに低く見ている証拠だ。人としての尊厳を一切無視しなくては、こんなゲームをやらせることなんて出来ない。反対に言えば、これは国の俺達に対する最大限の侮辱なんだ。」飛竜が吐き捨てるように言った。
 その場の全員が、黙って俯いた。


 繊月の視野の中を、よろめきながら走る少女がいた。ふらふらとした足取りだったが、目的地ははっきりしているようだ。彼女が走る路の先をちらりと見て、そう言えば公園があった、と繊月は思い出した。
 だが、彼女が最も気になるのは、その後ろを追い掛ける妹の姿だった。あの子は昔から、誰かに従属することを極端に嫌う子だった。だから、あの銀髪の筋を嫌がった。取ってくれ、と泣いた。
 あの国の――もはや憎しみしか感じられない祖国の奇妙な制度。ある一定以上のIQを持つ子供には必ず、あの目印が入れられる。染めることが出来ず、幾ら髪が伸びても消えも薄れもしない銀色の髪は、国に絶対の忠誠を誓わなければ命がないことを意味している。ある程度成長し『使える』ようになると彼らは、国の為にその優秀な頭脳を駆使させられる。ある者は武器開発に、ある者はスパイ活動に、ある者は暗殺に。逆らえば、インテリを極端に恐れる当局に確実に抹殺される。
 国に従うことを良心が許さず、しかし命が惜しいと思う内には、亡命する者もいる。多くは、幼い内に親に連れられて国を捨てる。
 ともあれ、銀色の髪の房を持つ子供達の大半が最終的に辿り着く先は、『工作員』の名称で呼ばれている。
 あの子は、誰よりもその素質があった。国にとって、工作員にするにはこれ以上ないほどの逸材だった。だが、誇りが高過ぎた。
 その妹が追い掛ける人物。興味はあった。
 繊月は、大きな街路樹の枝から軽やかに飛び降りた。




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