モドル | ススム | モクジ

第四夜


いりゅーだ-の-らん【幻影達の乱】
  槐暦二年(1609)瓜祭の幻影達(字は平勝)が渾沌(字は厄駘)と共に起こした大乱。新帝の即位、異民族の侵入等による税、労役の負担が原因と見られているが、詳細は不明。(中略)この乱による槐暦帝の自害で、素乾王朝は一時断絶、幻影達は新周を起こしたが、渾沌の謀略により二年で潰えた。別名渾沌の役。 
→幻影達 王斉美 槐暦帝 銀正妃 江才人 渾沌 新周 素乾

(出典 高山規一編『大東亜全百科』 蛍雪書店)



   第四夜


 「ヨンジュ、しっかりしなさい、ヨンジュ!」黄 玉環(ホァン・ミーカン)は肩に担いだ友人、孫 英子(ソン・ヨンジュ)の横っ面を軽く叩いた。だが青褪めた英子は身じろぎ一つしない。彼女の脇腹からの出血が玉環本人の白いパーカーも黄色いゼッケンもぐっしょりと汚したが、もはやそんなことに構っている場合ではなかった。一刻も早く手当てしないと、命に関わる傷であることは間違いないのだ。
 会場に放り出された玉環が真っ先に始めたことは、仲間を探すことであった。クラスの副委員長を務めていた彼女はクラス内での信頼も厚かったし、何より信頼に見合う優れた人格者であった。『プログラム』に何の前触れもなく放り込まれ、思わず絶望で目の前が真っ暗になった玉環だったが、それでもすぐに気を取りなおして彼女の思う行動を取り始めた。
 会場内では、ゲームに逸早く乗った――例えば江葉のような――人間と、始めから誰も殺す気のない――殺すくらいなら殺された方がましだと考える、玉環や鈴華のような――人間の他に、どちらにも分類することが出来ない人間もいるはずだ、と玉環は考えた。誰に襲われるかわからないという極限の精神状態で震えている人物は、たとえ誰も殺す気がなくても、不意に誰かと出くわしたら思わずその手の中の武器を振り上げてしまう。それだけは何としても止めさせたかった。
 何人も仲間を連れていたら、それだけで自分達は戦闘意思がない証明になる。最終的に何人のグループとなるのかはわからないが、たくさん集まれば集まるほど、今のこの状態から脱する方法を思い付く人物が混ざる可能性も高くなる。
 玉環は動いた。

 「ミーカン、大丈夫だった?・・・ヨンジュ!?」グループの基地にしている川沿いの大きな公園の入り口まで何とか戻ると、見張り当番だった張 美妃(チャン・メイフィ)がパタパタと掛け寄って来た。歩けない人間を連れて戻って来た玉環は、正直言って自分の方が倒れそうなほど疲れ果てていたが、気丈にも元気そうな声を作り美妃に指示を出した。「担架を持って来てもらえる?それから出来たら男子も呼んで来て。メイフィは向こうで薬の用意をしてて頂戴。」
 美妃は大柄な玉環を下から覗き込むようにして、心配そうに言った。「ミーカンの方は、大丈夫なの?」
 「全然大丈夫よ。それより、早くお願い。早く止血したいし、ね。」玉環は無理に笑顔を作って見せた。
 「うん・・・。」玉環も気になるが、重傷の英子の方が先だと思った美妃は、裾の破れたスカートを靡かせながら公園の奥の方へと走り込んで行った。
 英子を支えながら、玉環はひとまずその場に膝をついた。疲れた。午前中からずっと見知らぬビル街を、どこにいるともしれないクラスメイトを探してさまよっていたのだから無理もない。しかも、いつどこから攻撃が来るともしれない状態でずっと気を張り詰めていたのだから、幾ら体力にも気合にも自信がある玉環とはいえ、しばらく休みたかった。
 見付けた仲間は今のところ自分も含めて七人。見付けたものの連れて来ることの出来なかったクラスメイトは九人いた。
 これ以上、瞼を伏せてやることしか出来ないクラスメイトは増やしたくない。だがさっきの放送によれば、生存者は既に半分を切っている。もたもたしていたら、どんどん犠牲者の数ばかりが増えていってしまう。英子を仲間に任せたらもう一度、会場内の誰かを探しに行こう。玉環は大きな息をつきながら思った。


 突然小魚は立ち上がり、競技場の入り口の方へと爪先を向けた。
 「勝手に動くのはやめてよ。」寛美は、芝生の上に座り込んだまま言った。後ろ姿でそれを聞きながら小魚はちょっとだけ立ち止まって、小さな声で答える。「関係ないだろ。もう仲間じゃないんだから。」
 大花が心配そうに呼び掛ける。「シャオ・・・。」
 「タイホアは別にここに残ってたらいいよ。居たいんだろ。信用できなかったら仲間じゃないって言うなら、やっぱり俺は劉の仲間にはなれない。」似合わない精一杯に無表情な声で小魚は言った。だが、平淡な口調ではあったが語尾は擦れていた。
 鈴華がやはり引き止めようと身を乗り出したが、その肩に飛竜がぽんと手を乗せた。猫毛を揺らして彼女が振り向くと、その不安げな垂れ目に飛竜は首を振って見せた。思わず鈴華は声を荒げる。「何で!?せっかく仲間になれたんじゃない。なのに何でこうならなくっちゃいけないの?嫌だよ。あたし、やだ。」
 「スー、わがまま言わないの。」姉のような口調で寛美は鈴華を咎めた。どういう訳か彼女はこの一行の中で一番小柄ながら、変に大人びた感じがする。三人兄弟の一番上ゆえだろう。「あいつは、Mr.リューもあたし達のことも信用できないの。無理に一緒にいても、あたし達とMr.チャンのどっちもが嫌な思いをするだけよ。だったら別行動した方が合理的じゃない。」
 「でも、せっかく会えたんだよ。それなのに今離れたりしたら、きっともう二度と会えなくなっちゃうんだよ!それでもカンメイはいいって言うの!?」
 鈴華の半ば叫ぶような声に、行こうとしていた小魚の後ろ姿が引き止められた。寛美はすぐに何か言おうとしたが、何も言い返せずに口を閉ざした。
 不意に大花が無理に作ったような明るい声を出した。「大丈夫よ。お互いに最後まで生き残れたら、再会できるはずよ。そうしよう、ね。」
 小魚は俯いたようだった。微かに肩が震えていた。それを見て、大花は言葉を失った。
 寛美ははじめから何も言う気はなかったし、鈴華はただ掛ける言葉も見つからず、うろたえているようだった。
 飛竜は、何かを考えているように見えた。それはちょうど、いつもの教室での休み時間に彼が一人でぽつんと座っている姿に重なった。


 「ちょっと休めよ、ミーカン。朝から歩き通しなんだからさ。」青々と剃った坊主頭を大きく振りながら、仏 屏跳(ファッ・テューチョン)は主張した。
 だが玉環は、聞こえなかったふりをして重い踵を返す。屏跳は、自分よりもむしろ背が高いくらい大柄な彼女の、血に染まったパーカーの袖を掴んだ。「韓国語(ハングル)がわからないはずないだろ、お前。休めって言ってるんだ。・・・ほら、ふら付いてるぞ。」
 「ふら付いてなんかいないわよ。」鬱陶しそうに玉環は答えた。学校に上がる前からの付き合いだ、いい奴なのはよく知っている。だが、地元の小さな寺の息子であるこいつ屏跳は、面倒見のよさが過ぎて時折お節介に感じるときがある。
 「そんなんで出て行ったら、誰かに撃たれてお仕舞いだぞ。」
 玉環は黙って振り切ろうとした。だが、重い足ではすぐに屏跳に前に回り込まれてしまう。
 「お前がやられたら、万事休すだぞ。」
 屏跳は懸命に玉環に話し掛けた。だが、玉環は無視を決め込んだようである。袖を握っても乱暴に振り払われてしまう。
 屏跳は一瞬悩んだが、すぐに心を決めた。「・・・じゃ、俺もついてく。」
 「な・・・!」玉環は何か言い掛けたが、すぐに屏跳が言葉を重ねたので、何も言えなかった。「ミーカンは俺が見えないらしいから、俺がついて行っても構わないはずだ。」そう言って、彼は坊主頭の乗った首から背を、ぴんと伸ばした。
 玉環は止めようとしたが、この一見おちゃらけた幼馴染みの意外と頑固な気質を知っていた彼女は、一瞬の後に諦めた。
 諦めて、疲れた小さな声で玉環は言った。「邪魔しないでね。」
 「もっちろん。」糸目をさらに細めて屏跳はにっと笑った。そして、お世辞にも女らしいとは言いかねる大股で歩く幼馴染みの背中を追い掛けた。

 その背後、身を隠すには余りにも頼りない装飾用の樹木が植えられた公園の中で、美妃は英子の手当てに当たっていた。一応保健委員会を経験済みなので、簡単な手当ての仕方程度はわかるが、あらためて玉環に「頼りにしてるわよ」と言われると、途端に自分は何も出来ないような気がしてしまう。せめて玉環の果敢さの小匙一杯分でも自分にあったなら、と幾度となく溜め息を吐いたものだった。だが今は、溜め息なんか吐いている場合ではない。一刻も早く英子の手当てをしなければならないのだ。
 ぐったりとしている英子の脇腹に手を回し、玉環か屏跳がおそらくその辺りの病院から失敬してきたらしい清潔なガーゼを押し当てて包帯で固定しようとしていると、脇からにゅっとトレーナーの袖を捲り上げた腕が伸びてきた。「手伝う。」
 「尹くん。」振り向くと、いつもと変わらない仏頂面を構えた尹 日白(ユン・イルペイ)が消毒液に浸したガーゼを片手に膝を付いていた。クラスで一、二を争う長身と(共に一、二を争うのは、当然と言えば当然だがあの金髪、劉である)体育会系っぽい五分刈り、むっつりといつも何かに怒っているような表情は否が応にも強面の印象を与えるが、意外にも動物には優しいのを美妃は知っている。飼い猫がマンションのベランダから落ちて怪我をしたとき、慌てて抱えて行った動物病院が彼の家で、日白は父親と思われる獣医の手伝いをしていた。飼い主には素っ気無かったけれど、猫には信じられないくらい優しかった。
 低い声でぼそぼそと彼は言った。「そんな巻き方じゃ、何にもならない。俺に貸せ。」
 慌てて美妃が身を横にずらすと、日白は長い無骨そうな腕で驚くほど器用に包帯を締めていった。思わず美妃が感心した声を上げる。「凄いね。さすが獣医さんだ。」
 「獣医は親父だ。俺は違う。」怒ったような声で彼は答えた。内心意外だった美妃は、隣から首を覗かせながら尋ねる。「でも、いずれお父さんの後を継ぐんでしょ?」
 日白は顔を起こして眉をひそめながら言った。「手伝いをするつもりなのか?それとも邪魔するつもりなのか?邪魔するつもりならあっち行っててくれ。」
 「あ・・・ごめん。」慌てて美妃は顔を引っ込めて、隣の救急箱を開く。「何を出せばいいかな。」
 日白は彼女の問いには答えずに、救急箱の中に無骨な筋張った腕を突っ込んで、ピンセットとアルコールを取り出した。まるで、お前に用はない、と言われたような気がして、美妃は少しだけ悲しくなった。と。
 「張さん、そっちはイルに任せて張さんはこっちで休んでなよ。さっきまで見張りやってて疲れてるだろ?」陽気な、と言っていいほど明るい調子の声が背後から流れ込んで来る。振り向くと、鄭 明道(テイ・ミョンド)がほつれたくせ毛の下ではにかむような笑顔を浮かべながら立っていた。
 「でも・・・。」美妃が言い掛けるのを遮ったのは、他でもない日白だった。「いいからあっち行ってろ。邪魔なんだよ。孫の手当てはどうでもいいのか。」
 愛らしい顔立ちを歪めて、美妃は泣きそうな顔になった。日白に突っ撥ねられたのも辛かったが、それ以上に自分が怪我をした友人をそっちのけで、こういう事態に便乗して浮かれていたという事実が悲しかった。そして何より、その事実を指摘したのが他ならぬ日白だったことが悲しかった。
 「お、おい、イル。張さんを泣かせるなよ。な、張さん、気にするこたないよ。」あたふたとしながら、明道は貴重品に触れるように美妃の肩をおそるおそる支える。日白はただ黙々と英子の傷を調べては薬を塗っていった。
 やっとの思いで顔を擦りながら美妃は顔を起こした。「ごめん、大丈夫。やっぱりちょっと疲れてんのかな。お言葉に甘えて休ませてもらうね。」
 「そうしなよ。そうした方が絶対いい。」明道はほっとしたように言葉を重ねた。美妃は裾がぼろぼろになったスカートを叩いて立ち上がる。「それじゃ、悪いけどごめんね。」
 全員の荷物を纏めて置いてある通称『本部』の方に向かう美妃の後ろ姿を見ながら、明道は日白の隣に腰を下ろした。
 「この色男。」
 日白はやはり無愛想に受け流す。「邪魔するな。向こうに行ってろ。」
 明道はぱっと表情を明るくした。「あ、それって気ぃ使ってくれてる訳?」
 「何が。」あからさまに機嫌を損ねた様子で日白は明道を睨んだ。慣れた様子で気にも止めず、明道は明るい声で続ける。「張さんって、可愛いよな。いや、どっちかっていうと、美人タイプだな。何て言うのかな、ちょっと人込みにいても目を引く感じだろ。クラスでも・・・。」
 「劉 飛竜、朴 江葉。」美妃が開けたまま置いて行った救急箱に、日白は無造作に手を突っ込んだ。
 明道が笑う。「劉は男だろ。」
 全く日白が相手にしてくれなかったので、勝手に明道は続けた。「ま、確かにあの二人には敵いっこないさ。始めて見たとき、俺思わず硬直したもん。でも、何て言うかその、張さんはそういうのとはちょっと違うんだよな。ほら、あの二人って何となく怖い感じだろ?そういうのがないんだ。何か、優しいって言うか、あったかいって感じって言うか。」
 「黄 玉環、蘇 鈴華。」
 また明道が笑う。「違いねえや。・・・でもさ、張さんってもてるんだぜ。多分クラスで一番くらいかな。でさ・・・。」
 日白がぴしりと遮った。「邪魔するなって言ったはずだ。お前の耳は風穴か。」
 ま、いいけどね。明道はくせ毛の頭を左右に振りながら立ち上がった。「わかった、お前の好意に答えて、向こうで張さんとツーショットを決め込むよ。」
 日白は振り向きもしなかった。
 俺、張さんのこと、ちょっといいなって思うんだけどさ。明道は無愛想で無骨な友人の横顔を盗み見た。
 俺って勘のいい方なんだぜ。多分張さんは、お前のこと・・・。


 「ああ、もう。こういうのって大っ嫌い!」突然大花が頭を振りながら立ち上がる。綺麗に結われたおだんご頭のうなじに、いつの間にか後れ毛が飛び出していた。
 「暗いわよ、皆。暗すぎるわよ!何かこう、陰気なのをぱーっと吹っ飛ばせるようなことはない訳?」いつもの調子、とは言い難いが、少なくとも五人の中では一番覇気のある様子で、大花は主張した。
 小魚は他の四人から少し離れたところでじっと俯いたまま動かない。例によって飛竜は、何の興味も起こらないような顔をして何かを考え込んでいる。何か発案したいが何も思い付かず途方に暮れた鈴華に袖を引っ張られて、溜め息混じりに寛美は口を開いた。「例えばどうするの?盗聴されてる中で作戦会議でも開くつもり?」
 「何もそんなんじゃなくたっていいのよ!」やきもきしながら大花は声を荒げる。横目で溜め息を吐く寛美がなお一層憎らしいようだ。
 寛美は頭をがりがりと掻いた。まあ、確かにこの退屈な空気は何とかしたい。だが、具体的に何をすればいいのだろう。素っ気無く寛美は尋ねた。「じゃ、Ms.チャンの具体案は?」
 大花は一瞬言葉に詰まり、何か考えたようだったが、おそらく何も案など浮かばないうちに反射的に口を開いていた。

  春が来たら

 例の子守唄だった。だが、寛美も鈴華も思わず呆気にとられたのは、そのさっきとは打って変わった勇ましい歌いっぷりである。何だか、自棄を起こしたようだ、と鈴華は思った。
 確かに大花は自棄だったのだろう。次からのフレーズが如実にそれを物語っていた。

  また国のお偉いさんがボケ始める

 飛竜が怪訝な顔をして、大花の方を向いた。だが、次第にその顔に痛快そうな笑いが浮かんでくる。

  だから私はこの春こそ 電器屋工事屋梯子して
  ダイナマイトを仕入れて来て 青屋根御殿に仕掛けましょう

 おお、と寛美は小さく感嘆の声を挙げた。青屋根御殿と言えば、この国のトップ、国家主席の邸宅を意味する。アメリカで言うなら、ホワイトハウスだろうか。

  そして年中春ボケジジィを フッ飛ばしてやりましょう

 「うわぁ、すっごーい。」鈴華は目を輝かせて大花を見上げた。「すっごい替え歌だね!面白いよ。いいよ!」
 ふん、と鼻息も荒く得意げな大花に、飛竜はパンパンと手を打った。おざなりながら拍手のつもりらしい。「立派なことだ。確信犯でよくそこまで出来るな。」
 「盗聴が怖くて替え歌が歌えるもんですか。危ない橋渡るのは慣れてるわよ。」腰に手を当てて仁王立ちのまま、大花は、さ、と呟く。「リンファ、次はあんたの番よ。歌いなさい!」
 「え。」一声だけ発して、鈴華は絶句した。にっと大花が不敵に笑う。
 「知ってるんだから。この間国文の自習中に鼻歌歌ってたの、あんたでしょ。」
 鈴華は顔を赤くした。つい先日、国文学の担当の教師が出張で留守だった。そのとき、教室内でこっそりと誰かが小さな声で鼻歌を歌っていたのだった。余りに小さな声で曲目も誰の声かも聞き取れなかったが、休み時間はその話題で騒然となった。鈴華が真っ赤になっていたことや、その前日に彼女がずっと欲しがっていた歌謡曲のCDを入手したばかりだと知っていた寛美には、一応犯人の目星は付いていたが。
 「という訳で。簡単な歌だし曲はわかったでしょ。」
 「歌詞覚えてないよぉ。」鈴華は情けない声を出す。
 「替え歌だから歌詞なんかわかんなくたって歌えるわよ!さ、とっとと歌う!」
 隣で、飛竜が愉快そうに笑っているのが見えた。劉くんって薄情だ、と思いながら寛美に目をやると、こちらは笑顔で手拍子を打っている。どいつもこいつも。
 「あたし、音痴だからね。笑わないでね。」眉間にこれ以上無理だというくらいに皺を寄せて、鈴華は宣言した。いいから、と寛美が急かす。
 大花が腰を下ろすのと入れ違いに、鈴華は覚悟を決めてすっくと立ち上がった。

  春が来たら またお散歩に行きたくなる

 「平和じゃない。」大花は不満そうに言った。
 「出だしじゃまだ展開はわからないでしょ。」横から寛美が口を挟んだので、大花は鼻白んだ。

  だから私はこの春こそ 銃声轟くこの国抜けて
  白い小さな船に乗って 波の上をお散歩しましょう
  そしてまだ見ぬ遠い国に 逢いに行きましょう

 「上手いじゃないか。」飛竜は腕組みをして感心したように言った。真っ赤な鈴華がぱっと嬉しそうに顔を起こす。
 飛竜は平然と続けた。「いや、歌唱力はひどいが、歌詞が上手いなと思って。」
 鈴華はぱたっと座り込み、寛美の肩に額を乗せた。
 「どうしたの?」寛美が尋ねると、鈴華は意気消沈した声で答えた。「劉くん、誉めてんだかけなしてんだかわかんない。」
 「さ、次はカンメイよ。」大花は寛美を人差し指で指しながら言った。思わず寛美は肩の鈴華を忘れて身を乗り出す。「ちょっと待ってよ、いつからあたしも歌うことになったのよ。」
 「あたしが決めたときから。」ふふん、と得意げに大花は笑った。「あたし、リンファと来たら、当然次はあんたでしょ、カンメイ。」
 何か言い掛ける寛美を遮るように、大花は付け加えた。「教師泣かせのセニャン、期待してるわよ。」
 嵌められた、と思いっきりしかめ面をして寛美は頭をがりがりと掻いた。ちらり、と小魚を見ると、彼は立ち去るに立ち去れず戸惑っているような後ろ姿を見せている。
 ふと視線を戻そうとして、飛竜と目が合った。

  春が来たら ってあたしは明言止めとくわ
  だってあたしはこの胸に プライバシーを無視された
  鉄の小さな盗聴機プラス 感電装置も付けられたから
  ここで計画ばらすなんて へまはしないわよ

 「夢もロマンも野望もへったくれもないじゃない。」不満そうに大花は口を尖らせた。もっとも彼女はおそらく、寛美の歌には何がしかの難癖を付ける心積もりではあっただろうが。
 「この場には最も的確だと思うけど。」寛美は髪をばさりと下ろしながら言った。座ると地面に付くほどに長い黒髪で、銀色の一筋のメッシュが映える。
 当事者である以上、その言葉には異論を唱えられず、むすっとしながら大花は顔を飛竜の方に向けた。「それじゃ、フェイロン。あんたが締めよ。つべこべ言わずに歌うのよ、いいわね!?」
 飛竜は少しだけ首を竦めたが、足を組んで座ったまま、軽く息を吸った。

  春天来了 春が来たら

 男の声とは思えないほど澄んだ綺麗な歌声によく合う、中華の言葉だった。

  還来花乳 また花が咲き始める
  便我復立 だから私はこの春も
  坐于英丘 花一面のこの丘で

 「替え歌になってないじゃない。」大花は不平を洩らしたが、その声は小さかった。飛竜は、今日初めてこの歌を知った訳ではないだろう。おそらく何度も何度も歌ったことがあるだろうと簡単にわかるほど、彼はこの歌が上手かった。

  指摘霞花 白い小さな花を摘んで
  握花束稠 たくさん束ねて花束にしましょう
  往而逢乎 そして春のように優しい人に
  君如春風 逢いに行きましょう

 思わず全員ぼんやりと聞き惚れるほど、飛竜の歌は綺麗だった。「美」の持ち主は相対的には女性に圧倒的に多いが、絶対的に優れているのは男性の方だと書いていた本を思いだし、寛美はつくづくと納得した。
 他の三人は常用語のハングルで歌を唄ったが、やはりこの旋律には中華の詞でなければならないということも痛感させられたし、何よりただ漢字を二つ代えるだけでここまで歌が変わるということも驚きだった。恋する乙女が精一杯めかして恋人の元へ駆けて行く華やかな歌が、離れた恋人への想いを断ち切れずにいる若者の哀歌へと変貌を遂げたことに内心寛美は舌を巻いたが、後の三人はおそらく詞を訳しきることが出来なかったのだろう、ぼんやりと歌の余韻に酔っていた。
 だが、一同を夢見心地から覚ましたのも、他ならぬ飛竜の声だった。「何も左翼ネタでなくともいいんだろう?」
 「だからって、ラブソングとはお見逸れ致しました。」やっとの思いで寛美は声を出した。どうやら声の調子から、自分は微笑んでいるらしい。我ながらこの状況でよく笑えるものだ、と思う。「あんた、花束抱えて逢いに行きたい相手なんていたんだ。」
 飛竜は笑って見せた。「意外か?」
 「別に尼さんじゃないんだから、自然なことなんだろうけど。」本心だった。
 青空を見上げて、飛竜は静かに言った。「俺は自分で意外だよ。我ながらもっと冷静な人間だと思っていた。」
 少し、間があった。唐突に小魚が口を開いた。
 「お前がこれ以上冷静だったら、人間じゃなくって機械だと思うよ。」
 大花と鈴華が驚いたように顔を挙げて、それから微笑みながら頷いた。


 疲れきっているはずの玉環は、それでも驚くほどの早足で街の裏通りを進んで行った。いつもはのんびりと歩みを進める屏跳は、小走りにならなければならないほどだ。
 「ミーカン、ちょっと休もうぜ。」屏跳は背中を丸めて弱々しい口調で言った。はっはっと肩で息をしながら、玉環は足を緩めようとしない。「だったら、あんた一人で休んだら。」
 屏跳は足に力を込めて、玉環の隣に並んだ。意外と楽に回り込むことが出来た。彼女の体力も、限界に近いのかもしれない。「そんなこと言ってさ、ミーカンだってよろよろしてっぞ。悪いこと言わないから、その辺でちょっと座ろう。な、それだけ。それだけでいいから。」
 玉環がちょっとだけ横を見ると、彼は顔の前で掌を合わせて拝む真似をしている。強がりを言ってはいるが、肉体的にも精神的にも疲労して、もう足を運ぶのもやっとといった有様の彼女は、少しだけ自分と屏跳を甘やかすことに同意した。「わかったわよ。本当にちょっとだけよ。」
 屏跳の顔にぱっと喜びの表情が浮かんだ。そしてきょろきょろと左右を見回すと適当なコンクリートのブロックを見付け、驚くほど軽い足取りで近付いた。
 とん、と腰を下ろすと屏跳は、やれやれといった調子で溜め息を吐く。
 「無用心なんだから。」ぶつぶつと愚痴めいたことを言いながら玉環も近寄り、銃弾もクロスボウも飛んで来ないことを確認してから座り込んだ。
 座り込むと、疲れがどっと溢れ出すように体がだるくなり、玉環は腰を下ろしたことを少しだけ後悔した。思わず上半身の力を抜いて自分の膝の上に突っ伏す。
 それを眺めながら、屏跳はやれやれと息を吐いた。あのまま放っておくと、彼女はきっと倒れるまで歩き続けるに決まっている。自分の為には絶対に休む人間ではない、ということを屏跳は誰よりもよく知っているつもりだった。
 ふと、気が抜けた拍子に彼の脳裏に「ゲーム」のことが蘇って来た。 
 寺で貰われて、寺で育った屏跳にとって、死は馴染み深いごく有り触れた出来事だった。葬式の手伝いに行くといつも、人は必ず死ぬものと痛いほどよく知らされたし、遺された者が幾ら慟哭しようと死は不可逆なもの、決して死者が蘇ることはないと知らされた。そういった少しだけ特殊な体験の積み重ねから、屏跳にとって死とは恐ろしいものではなくなっていった。
 『人はいずれ、必ず死ぬんだ。』
 だが、余りにも急すぎる。まだ何一つ実感として掴めていない。昼下がり、普段なら授業がつまらなくて居眠りをしている頃。既にクラスメイトは半分以上(半分、何て十把一絡げで嫌な言い回しだろう)が死んでいる――殺されている。それも、同じクラスメイトに。
 たくさん殺された。殺したのは一体・・・。
 「なぁ、ミーカン。」柄にもなく真剣な口調で屏跳は語り掛けた。玉環が重そうに半身を起こす。
 屏跳は、砂の乗ったコンクリートの地面を見詰めながら言った。「もし、もしもさ、劉とか朴とか施とかと出くわしたらさ、やっぱりミーカンは仲間にならないかって言うのか。」
 「当たり前じゃない。」何言ってるの、と言わんばかりに玉環が身を乗り出そうとしたら、屏跳は瞬時にそれを遮った。「だって、三人ともきっとやる気になってると思うぜ。確かに根拠はないけど、こういうギリギリのときって、そういう予感でも警戒しておくに越したことないんじゃないかと思うんだ。第一、あいつらさっきの放送ではまだ死んでなかったじゃないか。あいつらをヤバイって思ってるの、俺だけじゃないと思う。そういう奴が出くわしたらさ、きっと迷わず攻撃すると思う。だとしたら、三人とも絶対的に不利だよな。それなのに、まだ三人揃って生きてる。どういう意味だかわかるよな?」
 押し殺した声で玉環は呟いた。「・・・劉くんも、朴さんも、施さんも、やる気になってるから会った子達を殺したんじゃないかってこと?」そして勢いよく立ち上がると彼女は、半ば叫ぶように言った。「そんなのわかんないじゃない!それじゃあテューチョン、あんたのことをよく知らない子がいきなり飛び出して来てあんたに向かって銃を撃とうとして来たら、無抵抗で撃たれてあげる訳!?誰だって抵抗くらいするでしょ。それで勢い余って相手を殺しちゃったら、やる気だって言いたいの!それに、施さんには友達のスーがいるからいいけど、劉くんも転校生の朴さんもクラスに友達なんていないじゃない。もしかしたら誰も信じられなくて、どこかで隠れてるだけかもしれないでしょ!?」
 それが余りにも説得力に欠ける主張だということには、玉環自身気付いていた。二人とも一人でも全くと言っていいほど、クラスで寂しそうな様子は見せていなかったし、事実自分から他者を拒むような素振りも見せていた。
 だが、多分玉環しか知らない。校舎の裏で、巣から落ちていた小鳥の雛を巣に戻してやっていたのは、他ならぬ劉 飛竜だということを。病気がちで学校をよく欠席する隣の席の子に配られた授業プリントに、朴 江葉が歪んだハングル文字で一生懸命要点を書き込んでやっていたことを。施 寛美が、『あいつ』――生徒を一方的に抑圧しようとする国語教師――にマークされることを承知の上で口論を仕掛けたのは、少なくとも成績優秀で『あいつ』にも目を掛けてもらっていた彼女自身の為ではないということを。
 自分はこの二人について、何一つ満足に理解していない。だからこそ、自殺行為ととられても構わない、疑うことなんて出来なかった。玉環は言った。
 「あんたみたいな奴なんかと、一緒に行動したくない。」
 「ちょ、ちょっとミーカン、聞けよ!」慌てて屏跳は何か捲し立てていたが、玉環は完全に聞く耳を持たなかった。重い足で体を支え、くるりとそっぽを向いて行こうとする。
 二人は全く気付いていなかったが、その裏路地から表へと通じる細い道の先で、ショットガン片手に朴 江葉が煙草を燻らせていた。
 既に、一発も外さなかったにも関わらずショットガンのカートリッジは何本か空になっているが、一応まだ幾つも予備はある。だが、彼女はその銃口をあの二人に向けようとはしなかった。理由は多分当事者にもわからない。
 ただ、このゲームが始まるほんの数日前のこと。歴史か何かの授業だったと思うが、ノートを切らしてしまった江葉は、授業プリントの裏の白い面に板書きを写していた。数日前からノートの残りが少なくなっているのには気付いていたが、劇場の下働きをしながら借金を返済している姉と二人暮しでは、つい言いそびれてしまったのだ。藁半紙ではペンが引っ掛かり、あまり書き味がよいとは言えなかったが、成績を落として奨学金を打ち切られる訳にはいかなかった。
 そのとき、江葉の左の席からルーズリーフを二枚渡された。見ると、玉環が机にルーズリーフの束を戻しているところで、ぱっと彼女が顔を起こした瞬間目が合った。江葉が小さく頭を下げると、彼女は微笑みながら頷いた。
 ふー、と江葉は甘い煙を吐き出した。明るい空に溶け込む白い煙を思わず見詰めていた。


 「馴れ初めを詮索するつもりじゃないけど」寛美はばさりと髪を掻き揚げて、後れ毛を撫で付けた。「相手はどういう人?男?女?」
 飛竜はからかうようにくすっと笑い、思い出したようにポケットから一枚のパスケースを取り出した。「見るか?」
 飛び付くように大花が小魚の腕を引きながら覗き込み、遅れて鈴華が顔だけ突っ込むようにして加わった。寛美は飛竜の背中側に回り込み爪先立って、彼の華奢な肩越しに大切そうに取り出す写真を見た。
 大花が茶化し半分、落胆半分に言った。「何だ、女じゃない。」
 「普通はそうじゃない?」鈴華が写真に釘付けられながら答えた。
 多分、二十代前半くらいの女性が四角い紙切れの中で笑っていた。服装は色の褪せたチマ・チョゴリでほとんど化粧っ気もなかったが、相当の美人である。おそらく生まれ持った性質に加えて、身に付けた教養や心持ちが彼女をより魅力的に見せているのだろう。
 細すぎるほどか細い首筋や薄手のチョゴリ越しの肩骨から、あまり裕福な家柄でないことは垣間見えるが、優しげな美貌は貧富の差に揶揄されるものではなかった。とりわけ、長く豊かな黒髪は何よりも鮮やかに目を引いた。
 誇らしげに飛竜が言った。「綺麗だろ。」
 「うん。」でも、と素直な感想を加えたのは鈴華だった。「劉くんの方が美人だよ、絶対に。」
 寛美に肩を抑え付けられて煩わしそうにしながら、飛竜は首を傾げた。「少なくともこいつの方が黒髪は綺麗だ。俺には黒髪はないからな。」
 「ぞっこん惚れ込んでるのねえ。」耳元で寛美がからかうと、彼は少しだけ赤くなった。やっぱりこいつも人間だったのね、と内心寛美はおかしかった。だが、少しだけ悲しいのは何故だろう。
 突然大花が飛竜の前に身を乗り出してきた。「ねえねえ、彼女何て名前なの?いっつもどんな風に呼び合ってるの?やっぱあんた、フェイくんとかって呼ばれてんの?」
 どんどん近付いて来る大花に苦笑しながら、飛竜は言った。「教えてやらない。」
 「えぇ!?教えてくれたって構わないでしょ。ねねね、何て呼んでんの?」
 飛竜の顔に一番近いところにいた寛美は、彼が少しだけ悲しそうな表情をしたのを見ることが出来た。こいつってば、人間らしい表情を幾つも持ってるんじゃないの、と、ちょっとだけ寛美は意地悪な気持ちになった。「あたし達には教えられないって言うの?ふうん。信頼云々って小魚に弁論してたの誰だったっけ。」
 飛竜は言葉に詰まり、黙って寛美の方を向いた。寛美は飛竜の肩に顎を乗せたままふい、と視線をそらす。そらした目の先に、咎めるような顔をした鈴華がいた。「カンメイ・・・。」
 思わず自己嫌悪の念に駆られて、寛美は飛竜からぱっと離れた。口から出る言葉が吐き捨てたようで気分が悪い。「わかったわよ。悪かったわね。」
 「こっちこそ、悪いな。」静かに飛竜が言うのが聞こえる。全く怒っている様子ではなかった。それがかえって寛美を惨めにする。
 いつものように、ほとんど感情の起伏のない声で飛竜は続けた。「俺、こいつは死なせたくないんだ。だから、悪いな。」
 「よくわかんない。」きょとん、とした顔で大花は目を瞬かせた。「何でそれが名前を教えてくれないってことと繋がるの?」
 飛竜は少しだけ渋ったが、大花に詰め寄られて目を細めて頷いた。今度の表情は、後ろで俯いている寛美意外の全員にはっきりと見えた。笑顔なのに、どうしようもなく悲しそうだった。
 「彼女、腹ん中に子供がいる。」
 寛美は飛竜の背後でぎゅっと目と耳を塞いだ。
 「俺の子だ。」飛竜は言った。


 「そうなの。やることやってんじゃない。」ようやく寛美は声を出した。どうして、こんなに悲しいのだろう。「ま、めでたいことなんじゃないの?あんたの遺伝子がこんなゲームで潰えるなんて勿体ないと思ってたし。」
 「ありがとう。」飛竜は振り向いた。だが、寛美は目を合わせられなかった。「どうしてお礼を言うの?」
 笑ったようだった。「祝福してくれたの、セニャンが初めてだから。」
 泣きたくなった。でも、泣くともっと惨めになりそうで怖かった。誰かが何かを言ってくれるのを待った。待つのなんて慣れていなかったから、時間が物凄くゆっくりと流れている気がした。
 大花と鈴華は驚きで目を真ん丸にしている。当然だろう。
 そのうち、ようやく小魚が上擦った声を出した。「それで?やることやって子供が出来た、じゃさっきの説明にはなっていないと思うよ。」
 「ああ。」飛竜は三人のいる方に向き直った。双子は食い入るように飛竜の目を見詰めていた。鈴華だけは、寛美の方をじっと見ていた。
 「チャンテイは、歴史は国史選択か?それとも世界史選択か?」
 「・・・世界史、だけど。」警戒するように小魚は言った。
 飛竜は微笑んだ。「だったら説明がし易い。」
 「あたし、国史選択なんだけど・・・。」遠慮がちに鈴華が言ったが、彼は黙って頷くだけだった。
 そして、柔らかい声音で語り始めた。
 「中国史をやったときに、歴代王朝の中に『素乾』ってのがあっただろ。12世紀から20世紀初頭まで続いたって言う、あの王朝。」
 四人とも、聞き覚えはあった。鈴華は歴史が割と好きだったし、寛美と双子にはそれ以上に重大な意味を持つ国家だったからだ。
 「歴史では、どんな風に習った?」飛竜は小魚に向かって尋ねた。
 小魚は少し眉をひそめて答えた。「あまり良くは聞かなかったけど、特に15世紀頃――槐暦帝の頃から、先生はぼろくそに言ってた。近代化の遅れた腐敗国家だとか、中華が未だに発展できないのはこの王朝の名残だとか。」
 「だろうな。」既に解答がわかっていたような口振りで飛竜は言った。事実、わかっていたのだろう。「それじゃ、幻影達の乱について、どんな風に習った?」
 「腹立ったわよ。一方的に槐暦帝も銀正妃も悪人にされてたもん。頭の固い王朝側が革新派の幻影達に一旦は滅ぼされたんだけど、奴の逆臣混沌が銀正妃と密通して寝返って、自分を信頼しきってる幻影達を謀殺したってんでしょ。何よ、歴史で嘘を教えてもいい訳!?」一気に捲し立てたのは大花だった。
 「王朝の滅亡は?」
 鈴華がおずおずと答えた。「その辺の歴史はあんまし自信ないけど、確か反対勢力の過激派に皇帝一族が皆殺しになったとかって奴だよね。九・一三事件だったっけ。」
 「九・二三事件。」段々と飛竜の口調が固くなってゆくのがわかった。「当時の皇帝円宗とその家族の邸宅に全 大倉(チョン・デチョン)らの過激派グループが乗り込んで来たのが1903年九月二十日。それから革新派が皇帝の遠戚を粛清し終えたのが、二十三日未明。七百年続いた王朝の血筋は、ほんの三日足らずで完全に途絶えたって訳だ。」
 「それから『素乾狩り』――抵抗する保守派が徹底的に虐殺されるっていう政策がとられた、って習った。」重苦しい口調で小魚が付け加えた。「この半島に亡命してきて、鎖国政策で殺されたっていう人もいたらしいね。」
 飛竜は頷いた。「そう、東には逃げ道がなかった。」
 その言い方に何か引っ掛かる感じを寛美は受けた。東にはない・・・。
 「だったら、西には?」
 風が吹き抜け、頭上の木々がざわめいた。風に髪をあおられながら、飛竜は何かを見上げた。
 「ちょっと待って。」怯えたように、鈴華が声を挙げた。「素乾派の人達は、迫害で完全にいなくなっちゃったのよね?それで、革新派の邪魔になる勢力の象徴とか何とかって言って、皇帝の血筋は完全に絶やされたはずなのよね?世界史選択してなくても、それくらいは知ってるよ。」
 「そう、それが常識のはずね。だけど・・・。」
 寛美は奇妙な感覚に支配されていた。嫉妬とも違う、失望とも違う、真相を見当てた功名心とも違う。もっと本能的で原始的な感情。亜麻色の髪が垂れた背中に沿って、彼女は正面に回った。
 「その髪の毛と、偽造の国籍と、ばれたら殺されるあんたのDNAを孕んだ恋人と、全てに説明の付く解答を期待しているわ、Mr.リュー。」寛美は飛竜の真下から、その端正な面を上目使いに見上げた。
 静かに飛竜は正面を向いたまま言った。奇麗な声だった。
 「俺の本名は素乾 竜血樹(スグァン ロンケッシュ)――素乾王朝第三十三代目天子だ。」
 三人が息を飲むのが聞こえた。
 飛竜が何を見ているのか、わかるようでわからなかった。
 寛美は俯いた。
 なぜか涙が溢れてきた。
 泣く理由なんかない、と思ったのに、涙は頬を滴り落ちた。




モドル | ススム | モクジ