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第三夜


  春天来了 還来花乳    
  便我復立 坐于英丘    
  指摘霞花 挿花釵稠    
  往而逢乎 君如春風    

春が来たら また花が咲き始める
だから私はこの春も 花一面のこの丘で
白い小さな花を摘んで 髪にたくさん挿しましょう
そして春のように優しい人に 逢いに行きましょう

         (北師に伝わる民謡)



    第三夜


 朴 江葉(パク・ジャンヤン)は『会場』の中を一人で行動していた。個人行動を取っている(あるいはもはや過去形で『いた』か)人物は彼女のみではなかったし、おそらく自ら進んで仲間を作らなかったのも彼女のみではなかろうが、そういった生徒達の中でも、江葉は一線を引いていた。
 彼女が今付けているゼッケンの色は、赤。黒ずんだ血のような緋色だった。もっとも初めは白だったかもしれないし、あるいは黄色だった可能性もある。何故ならば、江葉の学校指定の白い上着もまたとっくに真っ赤に染まっており、民族衣装をアレンジしたような衣服の腰帯には、拭っても落ちない赤黒い染みのついたナイフがいつでも取り出せるように捻じ込んであるからである。
 クラスの中で寛美に次いで背の低い江葉は、不法駐車の車以外不気味なほどに何もない大通りの中央を、柔らかい革靴で音も立てずに歩いていた。葉を落とした街路樹が果てしないほどに続く路を、まるでいつ弾丸が撃ち込まれても構わないかのように悠然とした足取りで。
 通りに面しているシャッターの下りた服か何かの店の陰で、息を飲んでショットガンを構えている者がいた。
 朴の奴、隠れてる俺の目の前でいきなり崔 福順(チェ・プクスン)を刺し殺しやがった。それも片手で一息に。あいつはやる気なんだ、殺されても当然の女なんだ。彼、青いゼッケンの安 晩衛(アン・マンウイ)は血走った目をしながら自らの行為の正当性を心の中で主張した。もうじき気付かずに朴が自分の目の前を通る。その瞬間がチャンスだ。このショットガンで、あいつの無表情な顔を吹っ飛ばしてやる!
 晩衛は、つい今しがたまでレストランのごみ箱の中に隠されていたそれを、両手で構えた。と、その瞬間。
 鼻先を、つん、と甘い匂いが霞めた。彼の視野に、すっと紅い影がよぎったような気がした。同時に腹部に軽い衝撃。
 嫌な予感がした。いや、ずっとそんな予感はしていた。その予感を確かめるように晩高は自分のすぐ前を見下ろした。そこに江葉がいた。
 江葉の白い顔にはめ込まれた碧眼と、彼の目が合った。江葉は、相変わらずの無表情だった。そこで晩衛は事切れた。
  血走った目を見開いたまま自分に倒れ掛かってくる晩衛の腹から太いナイフを引き抜くと、次に江葉は彼の遺体を向こう側に押した。晩衛は体の脇を店のコンクリート壁で擦りながら倒れこみ、狭い路地に仰向けに横たわった。
 江葉は返り血を受けた顔を拭いもせず、そのまま目の前に横たわる晩衛に近付けた。血の臭いに動じることなく、彼女は同級生の身体をじっくりと検分した。
 そして、固く握り締めたままの手を強引に抉じ開けて、その手からショットガンを取り出した。ポケットをあさり、彼が肩から下げていた鞄を開いて、彼が持っていた予備のカートリッジも全て奪い取った。
 血塗れは気持ちの良いものではなかったが、不思議とずいぶん慣れてきた。血で染められそうな白い頬を袖でぐいと拭い、再び江葉は明るい通りに立った。綺麗に舗装された路の上、気持ちの良い風が彼女の髪を撫でながら通り過ぎた。
 短く切った砂色の髪が揺れ、後ろよりも少し長く残したサイドの髪が靡いた。左耳の前に落ちる髪の房だけ、物心ついた頃からずっと銀色をしている。
 隣国の連邦当局に入れられた、とある目印だと知ったのは、だいぶ昔のことだ。
 江葉は、ポケットから一本の煙草を取り出し、銀色の細かい模様の入ったライターでカチッと火を付けた。ふわりと辺りに甘い匂いが散る。
 このクラスにはもう一人、同じ目印を付けている者がいる。
 江葉は、血で汚れたショットガンをカチリと鳴らした。


 「あんたさ、頭掻くのやめたら。」呆れたように大花が言った。
 がりがりと寛美は頭を掻いた。額から後ろに流した前髪の中央よりやや右寄りに一筋入った銀色の髪の毛が、ほつれて幾らか後れ毛が落ちている。ちらりと大花に目をやった、不服そうである。「何で?」
 大花は肩をすくめて見せた。「下品よ。」
 「Ms.チャンに言われたくないわ。」寛美は元の方に顔を戻した。いきり立つ大花を必死に小魚がなだめる。
 腕組みをした飛竜が、くすりと笑って寛美に言った。「気が合わないようだな。」
 「そっちの方が喧嘩売ってんじゃない!」かっとした大花が叫ぶ。後ろから小魚が羽交い締めにしているが、彼女は振りほどこうと懸命に暴れる。こんな二人を横目に、寛美は机に頬杖をついてわざとらしい溜め息を吐いた。そして再び生え際に近い位置を乱暴に掻いた。
 大花に気を遣いながら、鈴華がそっと耳元に来た。「どうしたの?何か気になることでもあるの?」昔から寛美が何か考えている時に大抵頭を掻くということを知っているのは、おそらくこのクラスの中でも鈴華のみだろう。
 「気になることだらけよ。まったく・・・」寛美はようやく手を下ろし、机の縁に顎を乗せた。「このゲームは、何を意図してる訳?あたし達はクラスの連中を殺しちゃえばいいの?それとも黙って殺されろっていうの?何とかして警備網を潜り抜けて、逃げ遂せたら勝利?どうしろっていうの。そもそも、何が目的なの?」
 そして、窓から差し込む薄明かりを受ける飛竜の面をまじまじと見詰めた。淡い亜麻色の髪の毛が光を透かして、自ら輝いているように見える。思えば不思議な人物である。
 『高貴なる韓民族の血統の純粋』を謳い文句に鎖国を敷くこの国には、当然だが外国人がいない。いや、いないことはないがそういう人物は、まず処刑対象とされている密入国者か、あるいは鎖国になる六十年以上昔に何らかの形でこの国の国籍を取得した、いわゆる帰化人である。前者には、中世的な支配体制により迫害を受けている一部の中華民が、後者には、例えば鈴華の祖母のように大東亜から嫁いできた日本人が多い。いずれにしても、モンゴル系の黄色人種である。
 だから、飛竜のように明らかにコーカソイドの血の入った若者は極めて珍しい。進学しているのだからおそらく国籍は持っているのだろうが、それにしても冤罪のはびこるこの国の警察当局に、誤って処刑されかねない風貌である。
 そういえば飛竜に並ぶ問題児、あの朴 江葉も碧い目をしている。――思えば、際物揃いのクラスだったかもしれない。
 「目的なんて、わかりきったことじゃないか。」あっさりと飛竜は言った。「俺達に殺し合いをさせることだろ?」
 「だぁかぁらぁ」顎を支点に顔を左右に揺らしながら、寛美は苛立った。「そんな不毛なこと、一体何の為にってことよ。」
 「そんなもんどーだっていいじゃない。」少し頭が冷えたのか、大花は小魚を振り払っても寛美に殴り掛かって来なかった。大きく手を振り上げるのは、彼女特有のオーバーアクションだろう。「要は、逃げたもん勝ちなんだから!」
 「逃げる前にもうちょっと武器を集めた方がいいだろう。」飛竜があっさりと水を差した。大花がむっとしたように乱暴にパイプ椅子に腰掛けた。ガシャンと凄い音が立つ。
 そんな大花に目もくれず、飛竜は言葉を足した。「そのナイフ、左利き用なんだ。スーニャンが使いこなせたらいいが、そうもいかないだろ。だとしたら、他に誰も使えない。」
 「何で劉くん、あたしが左利きなの知ってるの?」鈴華が驚いて声を上擦らせながら尋ねた。素っ気無く飛竜が答える。「そんなもの、見ればわかる。」
 男子にしてはやや小柄な小魚が、長身の飛竜を見上げて言った。「ところで、作戦会議って言っても、リューは何か案があるんだろ?今なら誰にも聞かれないから、話したらいいよ。」何となく、彼はどこか韓民族よりも漢民族の方がしっくりと来る。もっと言えば、以前ドキュメント写真集で見た香港辺りのスラム街がかなり似合いそうな少年だ。人当たりはあまり悪くないのだが・・・。
 少し眉を曇らせた飛竜は、こちらはどうしたことかどこかの王朝の絢爛豪華な玉座が似合う。「そうもいかないんだよ。」彼はくすんだ笑みを浮かべた。
 「あのね、盗聴機が付いてるんだって。」必要もないのに声をひそめて、こそこそと鈴華が言った。双子は一斉にギョッとする。驚いた顔もよく似ている。「盗聴機!?」
 ばさばさとまたもや頭を掻きながら、寛美はかったるそうに説明した。「ほら、左胸のバッチ、盗聴機になってるのよ。安心しなさいよ、外れないから。抵抗したり逃げようとしたりしたら、感電して死ぬんだってさ。」
 きんきんとする声で叫んだのはやはり大花だった。「何であんたそんなこと知ってんのよ!まさかあんた・・・」
 「スパイじゃないわよ。」寛美は大花の言葉を遮った。どうもこの二人は馬が合わないらしい。気が強い者同士なので、当然と言えば当然か。「そこのMr.リューのご忠告ですの。おろかなあたくしめは、なーんにもわかりませんことよ。」
 双子は勢いよく飛竜の方を向いた。同じ形の四つの瞳に見詰められながら、飛竜は相変わらず物静かだった。何となくちらりと寛美が彼を見ると、どうやら鈴華も同じように見詰めているようではあった。
 合計八つの瞳に固められて、ようやく飛竜は言った。「言っておくけど、俺もスパイじゃないからな。第一もしも本当にスパイだとしたら、絶対にそんなの教えてやりっこないだろう。」「じゃ、どうして?」間髪入れずに寛美は重ねて尋ねた。
 少しだけ嫌そうな表情をした飛竜ではあったが、渋々といった様子で重い口を開いた。「・・・先生――俺を育ててくれた爺様に聞いたんだよ、大昔に工作員やってたらしいから。割と確実な情報だろ。」
 工作員!いきなりこんな言葉が飛び出すとは思ってもみなかった四人は、思わず身を引いた。この国に雇われた、悪名高い技術者の総称とも言えるその単語は、正直なところ美しい飛竜には余りにも縁遠そうな響きであった。
 しばしの沈黙の後、何事もなかったかのように平然としている飛竜に向かって、小さな声で小魚は尋ねた。盗聴を意識してではなく、何となく普通の声で話せるような事柄ではなさそうな気がしたのだろう。「育ててって、お前、親は?」
 飛竜は眉を少し歪めたまま微笑んだ。「死んだよ。どっちも外国人だったらしいからな。」
 「え、だってあんた進学許可が下りてるんだから・・・。」そう言いかけた寛美の言葉を、彼は途中で遮った。「俺、国籍偽造だから。」
 皆、その一言で飛竜について何となく様々なことを納得した。しかし、同時にその言葉は再びの沈黙をももたらした。こういう空気が大の苦手なのであろう、立ち上がっていた大花が苛々と大きな音を立てながら、パイプ椅子に腰掛けた。 
 そして再びの沈黙。
 コチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチ。
 静かに鈴華が呟いた。「時計の音、うるさいね。」
 そしてまた、皆が黙る。
 コチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチ。
 「あれ?」寛美はふと壁を見上げた。
 コチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチコチ。
 「変だな。」飛竜も三面の壁をぐるりと見まわした。劇場への扉がある面の壁の上部に時計があり、そこに視線を定める。デジタル式の時計は、灰色の画面に黒い文字で素っ気無く『11:56』と表示していた。いつの間にか、ずいぶん時間が経ったものであ・・・。
 デジタル時計!?
 「やばい!」寛美と飛竜は弾かれたように同時に叫んだ。寛美はぱっと外へ通じる扉へ行き、手早く鍵を解除する。飛竜は大花が座っていた椅子を強引にもぎ取ると、尻餅をつく大花には目もくれず壁に叩きつけるように押し付けた。そしてまだ揺れの止まないパイプ椅子に飛び乗ると、長身をさらに伸ばして取り付けられたデジタル時計をガチャガチャと外し始めた。
 「な、何すんのよ!」腰を擦りながら立ち上がる大花に、飛竜は答える余裕がないらしい、代わりに寛美が半ば悲鳴のように言った。「いいから早く逃げて!」
 叫び声と同時に扉ががちゃりと開いた。ここの扉は大道具搬入口のように重くない。寛美の腕でも十分に押し開けることが出来た。
 ちょうどその時、飛竜は用心深くデジタル時計を取り外した。液晶画面が彼の手の中で『11:57』にパッと変わった。「後三分。」息を飲んで飛竜は呟いた。
 おっとりとした鈴華も、さすがに飛竜が焦っているのを見て只ならぬ空気を感じ取ったらしい、顔色が蒼褪めている。そんな彼女を押し退けるようにして、小魚は飛竜に駆け寄った。短い前髪から冷や汗が散る。「どう?」
 「単純な仕掛けだが・・・。」飛竜は大きく左右を見回した。「迂闊だったな、劇場内の至る所に仕掛けられているはずだ。」
 小魚は聞き届ける前に大花に駆け寄り、状況が飲み込めず茫然とする大花の腕を乱暴に引っ張った。「な・・・。」言葉を発し掛けた大花も事の重大さに突如気付いたらしく、ただ立ち尽くす鈴華の肩を強く揺すった。「逃げなきゃ!あんた死にたいの!?」
 全員より一足先に扉をくぐった寛美は、今の今までポケットに捻じ込んでいた拳銃を取り出して両手で構えた。外に誰かいたら、今なら多分撃つだろう。
 幸い、正面を走る大通りに通じる路や、綺麗に整備された川沿いの公園や、古惚けた建物の博物館か美術館らしい建物や、とにかく目に映る見渡す限りの風景には人影はなかった。ひとまずほっとした寛美は、それでも不慣れな手付きで銃を構えたまま一番に外に飛び出した。続いて小魚と大花、それに子猫のように首根っこを掴まれて、半ば引きずられているような鈴華。
 最後に飛竜は部屋の中に時計を力任せに投げ込んで、舞台へ通じる扉にはまった強化ガラスがひどい音と共に割れると同時に、後ろ手で扉を閉じた。
 「建物のない方へ全力で走れ!」飛竜は叫んだ。
 ほとんど同時に、五人はつまずきながら駆け出していた。


 姜 聖里(カン・ソンリ)はドアノブを捻り、細い首を傾げた。扉が開かない。もう一度ガチャガチャと捻ってみる。やはり開かない。
 「どうしたんだろ。」急に不安が押し寄せてくる。
 友達となかなか会えず、一人で会場内をうろうろするのも怖いので、彼女は試合開始後すぐに目についた建物に入り込んだのだった。古惚けたコンクリートの五、六階建てくらいのビルで、人気がなかったから忍び込んだ。誰か出てきたらどうしようと思い、一階の一番奥にある埃っぽい物置部屋に入り息を殺していた。
 聖里は自分の白いゼッケンを見下ろした。埃が付いて黒っぽくなっていたそれは、クラス内に後七人お揃いがいる。自分がここに潜んでいる間に後の七人が殺し合って皆死んでくれたら、もしかしたら自分は生存者になれるかもしれない。そんな微かな希望を彼女は抱いていた。
 外からは時折銃声が聞こえてくる。そんな中、自分しかいない小さな部屋で、掃除道具の隙間で四時間近くじっとしていると、何か我を忘れて絶叫しそうになる。それを咽喉の奥で押し込むたびに、もしかしたらという希望は少しずつ膨れ上がっていった。
 ところがさっき、扉の向こうで小さな音がした。カチャ、というような金属音で、思わず聖里は身を縮めた。だが、それから一向に変化がない。十分近く経ってようやく彼女はドアノブに手を掛けたのだった。
 扉を力任せに前後に揺すってみた。開かない。扉の隙間に落ちていた針金を差し込んでみた。開かない。
 ドアノブを見てみると、古い握る形のノブには鍵を掛ける為のつまみがない。聖里は愕然とした。そういえば、この部屋の扉は向こう側からしか鍵が掛からない、そして開けられないように、向こう側のドアノブにしか鍵穴が付いていなかった。誰かが自分を閉じ込めようと、扉の向こうから鍵を掛けたのかもしれない!
 「開けて!お願い、開けて!ここから出して!」閉じ込められた、という恐怖感に震えながら彼女は扉を力一杯揺すり、必死に扉を叩いた。窓のない室内で、悲鳴のような甲高い声が虚しくこだました。残念なことに、この部屋を折り曲げた細い針で封印した――不気味なほどに黒ずくめの――人間は、今から九分前にこのビルから立ち去っていた。
 「出して!早く出して!!お願い!お願いよぉ!!!」
 扉を叩く拳から血を流しながら、狂ったように喚き続ける聖里のちょうど頭の真上で、コチコチと音を立てるデジタル時計は『11:58』を表示していた。


 「誰だ、お前。」クラス屈指のガラの悪い男子、咸 己一(ハム・ギイル)とその一味は、突然開かれた扉の方を一斉に振り向いた。鍵は掛けていたはずなのに、どうやって開いたのだろうと驚いたのだ。
 部屋の入り口には、黒い人影が無言で立っていた。いや、廊下よりも部屋の内側の方が明るいのだから逆光ではない。人物そのものが黒ずくめの服装だったのだ。彼等は当然学校の規定など守るはずもない人物達であったが、それにしても上から下まで真っ黒というつわものはさすがにいない。それだけにその人物は目を引いた。そこにいた全員が得物を取り、身構える。だが、相手は武器のようなものは持っていないようだ。
 しゃがみ込んでいた連中は下から順番に人物を見上げていった。背が高い。グループの頭を張る己一よりも幾らか長身のようだ。だが、細い。女である。
 全員女の顔を見上げた。引き攣った右目とくっきりとした向こう傷を持った細面の、表情に乏しい女である。どこから見ても学生には見えない。どことなく誰かを彷彿とさせるような無表情だったが、取り敢えず皆の見知らぬ人物であった。
 「誰だって訊いてんだよ。」唾を吐き出すように己一は言った。一斉に同じ部屋にいる奴等がニヤニヤと嫌な笑いを浮かべる。
 女は何も言わず、唐突に左手を差し出した。厚目であまり格好がよくないデジタル式の時計が、そこにあった。
 己一は意表をつかれたようで、長めのわざとぼさぼさにセットした髪を揺すって女を見上げた。後ろにいる六人が、何か笑いながらくっちゃべっている。女はやはり黙って、その時計を床の上に置いた。そしてそのまま立ち去ろうとする。
 己一は何が何だかわからずにその時計を眺め、次に女の方を見ようとした。女は既に廊下におり、慌てて彼は部屋から出た。と。
 クチャクチャとガムを噛む音が耳元で聞こえた。「撃っちまおうぜ。」
 見ると、最近危ない薬に手を出し始めた桂 国成(ケ・グッソン)が濁った目で女の後ろ姿を眺めていた。背後で「いいなぁ、それ」「やっちまえよ」という声がする。康 正柱(カン・ジョンジュ)あたりが愉快そうに言う。「どうせ俺達ゃ殺されるんだ。やるなら足狙えよ、遊べるぜ。あれ、美人じゃねぇか。」
 「そうだな」己一はにんまりと笑って、国成の薬に震える手から銃をもぎ取った。そして自分のゼッケンと同じ真っ黒な女の後ろ姿を狙う・・・が。
 銃声とほぼ同じに微かに女は右足を上げ、銃弾はその下をくぐって行った。何発撃っても女は振り返りもせずに難無く避けて、六発外した己一がさすがに焦って胴を狙った時には、女は既にビルのガラス扉を閉じてしまったところだった。針金入りのガラス扉には放射状にひびが走ったが、女にはそれで遮られて掠りもしなかった。
 「下手くそ。」国成がガムを吐き捨てながら言った。きまりが悪い己一は、弾が空になった小銃を国成に叩き付けながら部屋に戻った。国成がちょっと肩をすくめらがら追いかけるように部屋に入る。
 「何だ、追いかけなくっていいのか。」正桂が笑いながらちらりと己一を見た。ふん、と己一が鼻を鳴らす。「面倒くせえ。いいだろ、別に。」
 一同がけけけ、と笑いさざめいた。舌打ちして己一は、女が残して行った時計をつついた。「で、何のつもりなんだよ、これ。」
 コチコチと音を立てながら、時計の液晶は『11:59』に表示を変えた。


 寛美はゼイゼイと息が切れてきたが、とにかく先頭を走る飛竜を見失わないようについて走った。時折振り向く余裕があるところを見れば、どうやら飛竜は相当加減して走っているらしい。だが、体育の成績ではクラスでも最下位を争いそうな寛美と鈴華は、もはや限界と思われた。
 あと十秒走ったら倒れる、寛美がそう確信した瞬間、ようやく飛竜が脚を緩めた。「もう大丈夫だろう。」
 くらくらする目で辺りを見回すと、どうやら大きな競技場か何からしい。足下には芝生が生えていて、遠くにナイター整備の大きな明かりが見える。ほっとした寛美はそこに思わず倒れこんだ。隣で鈴華が膝をついたらしい音がする。膝を押さえて俯き息を切らしているのは大花で、額の汗を拭っているのは小魚。飛竜だけが僅かに頬を紅潮させた他ほとんど顔色も変えずに、静かに佇んでいた。
 飛竜が袖を上げて腕時計を見たので、つられて寛美も顔の前に時計を付けた左腕をかざした。逆光を遮るように腕をずらし目を凝らすと、ちょうどぴったり三分進めた針時計が、まもなく正午の三分過ぎに秒針を合わせる瞬間だった。
 「ジャスト」飛竜が静かに呟いた。
 その瞬間に、競技場を凄まじい轟音が包んだ。寛美は動くのが辛かったので首だけ横を向くと、爆音と共に火柱も上がっているが見えた。立て続けに爆音、また爆音。鼓膜がびりびりと震える音まで聞こえたが、頭の芯がぼうっとしている寛美は何が起きたのかよくわからなかった。もしかしたら、聴覚が麻痺したのかもしれない。
 荒い息で隣を見ると、鈴華もやはり何が起こったか理解しきれていない様子でぼんやりとしていた。その向こうで双子は身を寄せ合うようにして耳を塞いでいる。飛竜は、感情の見えない表情をしたまま劇場の方を静かに眺めていた。
 轟音の余韻がしばらく空気を揺らし、一瞬遅れてそよそよと生暖かい風が漂ってくる。それに次いでもう少し強い風が後れ毛を揺らし、再び辺りは無人の競技場に相応しい静寂に包まれた。ちちち、と数羽の小鳥が慌てて劇場の反対方向へと飛んで行く。
 そろりそろりと耳から手を下ろした大花は、燻る煙の上がる、さっきまで自分達がいた辺りを茫然と見詰めた。「・・・何?」
 ふと押し殺した悲鳴が上がった。目をやると、目を見開いた鈴華が咽喉元で必死に恐怖を殺している。可哀想なほどに全身が震えていた。
 寛美は不思議と恐怖を感じなかった。もうもうと上がる黒煙を見ながら、何となく状況を飲み込むことは出来たが、心底理解することが出来るにはもう少しかかりそうだ、と思っていた。ただ、こうなることの可能性にはとうの昔に気付いていたような気がする。
 「何が起こったの?」小魚が大花を助け起こしながら、信じられないといった口調と共に煙を眺めた。突然ぼあっと勢いよく黒い煙が立ち昇る。見渡す限りおそらく街の中の三、四箇所から煙がうねりながら上がって行く。
 「見ればわかるでしょ。」ようやく声が出るようになった寛美は、低い声でぶっきらぼうに答えた。睫の長い目は伏せているが、首は真っ直ぐ蒼天を仰いでいる。「時限爆弾が爆発したの。」
 よく晴れた、物凄くよく晴れた、爽やかな気持ちのいい日である。


 繊月は、爆発したビルからそう遠くないところにある小さな商店の駐車場で正午を迎えていた。己一達が『いた』ビルからここまで直線で、三十メートルもないかもしれない。轟音はアスファルトで固められた地面に亀裂を入れた。白っぽく色褪せたアスファルトから、濡れたように鮮やかな素材が顔を覗かせている。
 背筋を伸ばして彼女は、屈み込んでいた姿勢から洗練された動きで立ち上がった。そして背筋をピンと伸ばすと、両耳からそこの無人になった商店で拝借してきた黄色い耳栓を抜き出した。束ね髪が爆発の余波にそよそよと揺れる。
 鍵は、ピンで開けるには技術がいるが、締める時はそれほど難しくない。そういう訳で、繊月は手当たり次第にその辺の建物を施錠して回った。爆発しなかった建物も多いが、繊月が鍵を掛けた建物は確か三つ爆発したと思う。
 何人閉じ込めたのか、何人死んだのか、それには彼女は興味を持たなかった。妹は――唯一人の肉親は一体どこにいるのだろうか。それだけが気になっていた。施錠した扉の向こうにはいないと繊月は確信している。万に一つ閉じ込められたとしても、妹なら抜け出せると知っているので、不安はなかった。
 ふと彼女は、ベルト代わりに細い腰に巻いたウエストポーチから、小さな銀細工の箱を取り出した。箱の中にはつん、と甘い匂いのする茶色い煙草と白い頭のマッチ棒がぎっしりと詰まっている。片手で器用にマッチ棒に火をつけると、口に咥えた煙草の先に翳した。煙草の先からくすんだ良い香りのする煙が立ち昇る。
 妹は、今どこにいるだろう。
 繊月は、柔らかい足音を立てながら煙の立ち上る繁華街へと戻って行った。


 ポーンピーンポーンポォーン!
 場にそぐわない間の抜けた音が響いた。だが、間抜けな音なのに競技場で休息をとっていた五人は一斉に身を縮める。学校生活でこの音が響いた後には必ずあのお決まりの文句が――。
 『会場内にいる二年C組の生徒に連絡します。』機械的な女の声だった。
 「何で校内放送が始まるのよ!」大花が思わず不機嫌な声を張り上げた。慌てて鈴華がたしなめる。「チャンさん、ここは校内じゃないよ。」
 寛美が複雑そうな顔をして小さな声で言う。「この後に続く言葉って、校内だったら五回に一回はあたしの呼び出しなのよ。」
 「同じくらい大花も呼び出されてるんだよ。」言い難そうに小魚は言った。「やっぱり問題児扱いみたいで・・・。」
 飛竜がしぃっ、と言って唇に人差し指を当てた。慌てて皆口を押さえる。
 『午前八時四十八分から正午現在までの脱落者を連絡いたします。』電話で時報を告げるように、無機質な調子で声は言った。脱落者、がここで示す意味を思うと少しだけ寛美は気分が悪くなったが、さほど親しい人間もいないせいか衝撃は少なかった。一方鈴華の方は、やはり寛美同様に友人がいる訳ではなかったが、同じ教室で授業を受けてきた人々が死んだという事実に眉を曇らせていた。
 ふと見ると、飛竜が黒いデイバッグから生徒手帳とペンを取り出している。誰が死んだかメモするつもりらしい。
 『まず男子から。男子の現在までの脱落者は・・・。』機械的に出席番号に沿って姓名が読み上げられていった。人名を覚えるのが物凄く苦手な寛美には、聞いたことがあるかないかわからないような名前の羅列に思えたが、しばらく淡々と流れる放送を聞きながら不穏なことに気付いた。
 まず、出席番号が九番までのうち、五人の名が読み上げられたのだ。
 カリカリと音を立てて書き込む飛竜が一瞬顔を起こして、寛美の方を見た。寛美も明らかに動揺が隠せない様子で目配せする。
 「・・・多過ぎない?」大花が固い仕草で首を傾げた。「殺し合いって言ったって、まだ始まってから三時間ちょっとでしょ?幾ら何でも多過ぎない?」
 「多過ぎるわよ。」短く寛美は言った。飛竜のように名前を書き上げていくことは間に合わないから、何人の名前が呼ばれたかだけでも指を折って数えることにする。あっという間に両手が塞がってしまった。
 『男子は以上です。続いて女子は・・・。』やっと途切れたと思ったら、今度は女子の名前が延々並べられていく。男子だけで結局十一人の名が読み上げられたが、女子もまたそれに次ぐ勢いである。出席番号が三番から七番までは全滅であった。そのうち、石尹の名も並べられた。
 と、ふと鈴華が隣の小魚を見ると、彼はどういう訳かほっとした様子で、放送を聞き流しているように見えた。さっきまでは食い入るように聞き入っていたのにな、と鈴華は少し不思議に思ったが、今はクラスメイトの安否が気になったのでそちらに集中することにした。
 『・・・以上、男女合わせて二十一名が脱落しました。脱落者達の犠牲を無駄にしない為に、生存者の皆さんは最期まで頑張ってください。』
 「何が『頑張ってください』よ。殺し合いをさせてんのはあんた達じゃない。」例によって大花が悪態をついている。そんなことには構いもせずに声は続く。
 『尚、現在の生存者の状況をお報せします。生存者は現在十九名。色分けは、赤七人、青三人、黄色四人、白二人、黒三人となっています。赤の人、お互いに生き残れるよう頑張ってください。白の人、もうすぐ定員の一人になります。気を付けてゲームをお楽しみください。』
 最後の一言が大花を完全に怒らせた。彼女は抑えようとする小魚を振り切ってどこから流れてくるかもわからない放送に向かって叫んだ。
 「何が『お楽しみください』よ!誰がクラスメイトを殺すのを楽しめるって言うのよ!普段は犯罪者を容赦なく撃ち殺してるのに、都合のいい時だけ殺人の推奨をしないでよ、昏君(フンチュン)!!!」
 「辞めなよ、タイホア。全部向こうに筒抜けなんだよ。」小魚が姉を必死に後ろから抑え込んだ。その腕に食い付かんばかりにして、大花は叫んだ。理性のかけらなどどこにもないような、喚き声だった。「いいのよ!聞こえるように言ってやってるんだから!!放してよ!」
 鈴華が小魚の隣から腕を伸ばして大花を制止するのに加勢した。寛美も手伝おうと立ち上がると、メモを閉じながら飛竜が静かな声で言った。「まだ放送は続いてるんだ。やかましい。」
 慌てて寛美が耳を澄ませると、確かに無機質な声はまだ何かを語っていた。初めの方が聞き取れなかったが、そのうち大花が落ち着いてくるのに比例してはっきりと内容が聴き取れるようになっていく。
 『・・・気を付けてください。もう一度だけ繰り返します。ただいま会場内に部外者が乱入しています。不審な人と出会ったら、誘われてもついて行ってはいけません。とにかくすぐに逃げましょう。くれぐれも注意してください。尚、不審人物の特徴は・・・。』
 ここにいる五人には、放送を聞く前から人物の姿を思い浮かべることが出来た。だが、正直なところまさかという気持ちは拭いきれない。
 『二十代前半から中盤の背の高い痩身の女性で、片目の視力がほとんどありません。全身が黒い服装の為、すぐにわかると思います。出会い頭に攻撃を仕掛けてきますが、素手なので皆さんにも勝ち目があるはずです。それでは皆さん、気を付けてゲームを続行してください。』
 「・・・朴 繊月だ。」寛美は額を押さえた。「しかも、金以外に誰か殺したんだ・・・。」
 「ちょうどいいじゃないか。」飛竜はしれっとした顔で言った。考えていることがほとほと顔に出ない男である。「一人でも多く殺してくれたら、敵が減ってこっちも助かる。ま、もうクラスの半分も残っていない訳だから、決着をみるのも時間の問題だな。」
 放送に憤慨している大花を抑えるのに必死だった小魚が、飛竜の言葉を聞いているうちに顔色を変えていった。そして、彼の言葉が言い終わらないうちに飛竜の襟首に飛び掛かった。「何だよ、その言い方!クラスの連中が死んでいくのがそんなに嬉しいのかよ!?お前、本当は俺達のこと弾除けくらいにしか思ってないんだろう!?」
 小魚が殴り掛かりそうな勢いだったので女一同はギョッとしたが、飛竜は全く動じなかった。「俺は事実を言ったまでだ。だが、そう思いたければ思えばいい。その代わり、お前とはこれ以上行動を共に出来ないな。信頼関係がないところに契約はあり得ない。」
 「わかってるよ。お前みたいな奴、こっちから願い下げだ。」さっきまでと打って変わった鋭い目付きで、小魚は飛竜を見上げた。
 そんな小魚に、淡々と飛竜は続ける。「俺は、ろくに口を訊いたこともないクラスの人間よりも、自分や自分と契約を結んだ人間の安否の方が気になる了見の狭い人間だ。それが不満なら、出て行ってくれて構わない。だが、勘違いするな。俺とてこのクラスの全員を連れて会場から逃げ出すことなんて出来やしない。守るべきものを増やし過ぎると、自分すら守ることが出来なくなる。」
 「シャオユウ。」ようやく落ち着いてきた大花が、大人びた声で小魚に話し掛けた。小魚ははっと振り向く。
 大花は思いの他冷静に言った。「あたしはこいつらについて行くよ。あたし、死にたくないもん。そりゃ、赤ゼッケン最後の一人になれたら、生き残れるかもしれないけど、あたし石尹にすら勝てなかったんだもん。もしももう一度繊月と遭ったとしたも、絶対に勝てない。どっちに行っても先はわからないんだったら、あたしは目の前に吊るされたこの餌に食い付くよ。」
 そろりそろりと小魚は飛竜を下ろした。飛竜は小魚を見ていたが、小魚は信じられないといったように大花を見ていた。
 鈴華が脇から口を挟む。「あたしは、カンメイみたいに頭良くないし、劉くんや周さんみたいに強くないから、ゲームに巻き込まれたってわかった時ショックだったけど、すぐに覚悟は出来たの。そりゃ、死ぬのは怖いけど、みんなどうせいずれ死ぬんだし。だったらいきなり誰かに教われて怖い思いして死ぬよりは、一緒に行動してくれた劉くんに殺される方がずっとましだと思って。」そして飛竜の方を向くなり、慌てて付け加えた。「あ、別に劉くんのこと信じてないって訳じゃないよ、本当だよ。」
 飛竜はちょっとだけ笑った。それを見て鈴華はほっとした顔をする。
 「さて」寛美が腰に手を当ててにやっと笑った。銀色のメッシュがギラッと光を受ける。「四対一、あんた圧倒的に不利じゃない。ま、民主主義が死んだ国じゃ、多数決は無意味だけど。出て行くって言うなら行きなさい。あんたの意思なんだから、双子の姉ちゃんにも引き止めては貰えないわよ。」
 「あんたって、つくづく性格悪いわねぇ。」呆れたような声を大花が出した。寛美も我ながら意地悪を言ったと思う。おかげで小魚はじっと俯いてしまった。
 大花が近寄って行って、小魚の髪に手を掛けた。「シャオユウ、あんた仏 屏跳(ファッ・テューチョン)達のことが気になるんでしょ。本当に優しい子なんだから。」
 「仏 屏跳?」鈴華が反芻するように尋ねた。「周くん、あの子と仲良かったんだ。」
 小魚はこくんと頷いた。何となく子供っぽい仕草である。そういえば、彼らはまだ十七歳なのだ。「初等教育の頃からずっと友達だったんだ。それから、尹 日白(ユン・イルペイ)に、女子の黄 玉環(ホァン・ミーカン)や張 美妃(チャン・メイフィ)あたり。みんな友達だったんだけど・・・。」
 彼の言葉の最後は聞き取れなかった。しょんぼりと俯いた弟の頭を撫でながら、大花は案外なほどに優しい声を出した。「わかったから。ほら、皆見てるんだから泣かないの。男の子でしょ。」それから、小魚の頭を肩に乗せさせたままちょっと困ったように三人の方を向いた。「ごめん。ちょっとこの子混乱してるんだと思う。割とクラスに友達多かったからね。すぐに落ち着くと思うから、ちょっと待ってね。」
 飛竜は少しだけ目を細めて頷いた。そして、ほんの小さな――隣にいた寛美以外には聞こえないほど小さな声で、意外な言葉を洩らした。「羨ましいな。」
 寛美は思わずすぐ脇に立つ飛竜の横顔を見上げたが、整った輪郭はやはりいつもと変わらないように見えた。それから反対側の鈴華も見たが、双子を眩しそうに見詰めているばかりで飛竜の言葉に気付いてはいないようだった。
 (何が羨ましいんだろう。)寛美はぼんやりと考えた。泣き出した小魚の、どのあたりが羨ましいと言うのだろうか。
 だが、少しだけわかる気がした。今、この状況下で、我を忘れるほど感情を見せることが出来る。涙を見せるに値する友人が幾らもいる。こうやってなだめてくれる姉がいる。寛美にはそれでも鈴華がいるが、飛竜には小魚が持っている何も持ってはいないのだ。彼は、幾ら大人びていても同い年のクラスメイトなのだ。
 ふと、大花が優しい声で歌を唄い始めた。この国の響きとは違う、けれど懐かしい響きの旋律だった。

 春天来了 還来花乳  
 便我復立 坐于英丘  
 指摘霞花 挿花釵稠  
 往而逢乎 君如春風  

 ハングルよりも柔らかい響きの、中華の言葉で大花は歌った。亡くなった祖父が中華の出身だったので、何となく寛美にも意味を掴むことが出来た。

 春が来たら また花が咲き始める
 だから私はこの春も 花一面のこの丘で
 白い小さな花を摘んで 髪にたくさん挿しましょう
 そして春のように優しい人に 逢いに行きましょう

 「綺麗な歌だね。」溜め息をつくように言ったのは、鈴華だった。寛美も同感だったので黙って頷いた。元は恋を詠った民謡だったのだろうが、大花はまるで子守唄のようにその歌を唄ったし、本当にそのように聞こえる歌だった。
 「落ち着いた?」唄い終わってしばらくすると、不意に大花は小魚に向かって言った。一瞬の間が空いた後、小魚は姉の肩に顔を押し当てたまま、頷くように頭を動かした。だが、しばらく顔を起こそうとしない。もしかしたら、照れているのかもしれなかった。
 「北師地方の民謡だな。」懐かしそうに飛竜はそう言って、歌の出だしの一節を軽く口ずさんだ。「『春天来了(ツゥテンライラァ)・・・』」
 大花が少し笑って飛竜の方を見た。「あたし達の子守唄代わりだったの。母さん、あたし達が寝てからが仕事だったからね。一晩中傍にいられない代わりに悪い夢を見ないようにって、毎晩唄ってくれてたのよ。」
 垂れ目をくるくるさせながら鈴華は尋ねた。「それじゃ、もしかして、お母さん水商売だったって噂、本当なの?」そして、言ってから寛美に小突かれてはっとする。
 「『だった』じゃなくって、今もそうよ。」別に怒った様子も見せずに大花は答えた。その声に促されるように、そろそろと小魚は顔を起こした。慌てて鈴華は顔の前で手を合わせる。「ごめん。そういうつもりじゃなかったの。ホントよ。」
 大花は照れくさそうな小魚の頭にぽんぽんと手を乗せた。飛竜には劣るけれど、大花も結構美人だと寛美は傍観しながら思った。そして双子の姉は弟の分も代弁するように晴やかに言った。「わかってるって。性格の悪さがウリのカンメイが言ったならともかく、リンファにそこまでの嫌味を言えるはずないじゃない。」
 「悪かったわね、性格悪くって。」冗談のつもりで言ったが、言葉は思いの他感情を露わにしていた。そのことに少しだけ寛美は驚いたが、かえってもう一言付け足したくなった。「Ms.チャンに呼び捨てにされるいわれはないと思うけれど。」
 「そう?Ms.チャンに比べたら、ずっとフレンドリーでいいと思うけど。」
 「そういうノリで行ったら、ニャン(娘:〜嬢の意)程堅っ苦しいのもないわ。」
 気の強い二人娘にいつの間にか振って来られ、飛竜は困ったように曖昧な笑みを浮かべる。「そう言われても・・・。」
 鈴華は傍でそれを見て、嬉しそうににこにこと笑った。本当に争い事を避けたがる性質の娘である。「いいじゃない、自分の好きなように呼び合えば。ちゃんと通じてるしね。ちょっとだけ周さんと周くんがごちゃ混ぜになっちゃうけど。」
 「同じ名字な方が悪いのよ。あ、ついでに顔も同じか。」皮肉たっぷりに寛美は大花に向かって言った。大花がまた髪を逆立てる。
 飛竜がまあまあと間に挟まる。「喧嘩は辞めなさい、喧嘩は。仲間割れをするとこういうのは脆いんだ。一緒に逃げるんだろ?」睨み合っていた二人は、ぴたりと同時に動きを止めて顔を見合わせた。それもそうだ、喧嘩なんかよりも互いにやらなくてはならないことはたくさんある。ふい、と二人で違う方向を向いたその瞬間。
 急に、まだ薄赤い顔をした小魚が冷たい声を出した。
 「どうしても、ここの五人以外は助けられないの?」
 威圧感のある小魚のつり目に竦められながら、飛竜は喧嘩の仲裁と全く同じ温和な声で答えた。「無理だな。」
 「どうしても?」再び小魚は尋ねた。詰問というよりもよりも、今度はどちらかといえば哀願にも近い口調だった。
 「どうしても。」飛竜の口調が少しだけ固くなった。
 小魚は大花の肩に置いた手に力を込めて、自分を姉から突き放すように立った。少しだけ大花が後ろ向きによろめいた。
 「どうして?」
 小魚の問いに答えず、代わりに飛竜はその暗い大きな瞳を向けた。
 競技場の中で、きな臭い風が五人の髪を弄りながら通り過ぎて行った。




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