朝ご飯
「あのさ、レディー」
思わず俺は、呆然とベッドの上を見下ろした。
窓の外の太陽は既に高い。さっき起こさなければ、多分彼女は一日中寝ていたんだろう。ともあれ大きなクッションを抱え込むようにして身体を起こした女の子は、半ば寝惚けた目でこちらを見上げた。
「……何よ、朝ご飯食べろってうるさかったのはあんたでしょ」
いや、でもこれはどうかと思うよ。
――ベッド脇に落ちてたフランスパンをいきなり齧るのは、女の子としてよりも人間としてどうかと思うんだ。
「人の食事にまで干渉しないで」
いや、俺だってレディーのプライベートに干渉するつもりはないんだけど、でも食生活にだけは一言二言言わせてもらいたいんだよなあ。栄養失調でお医者連れて行くたびにクレーム言われるのは俺なんだから。
「せめて紅茶くらい淹れようよ。って言うか落ちてるものを食べちゃいけませんってお母さんにちっちゃい頃言われなかった?」
「三秒以内なら構わないって言ってた」
「三秒どころじゃないだろこれ。って言うかいつからこれ置いてたのさ」
額を押さえて思わず俺はレディーの手からフランスパンをもぎ取った。そりゃ床は毎日俺が掃除してるけど、でも土足で歩き回る場所なんだぜ。
きょとんと瞬きながらレディーはこちらを見上げる。
「昨日買って来たの。あんたに文句言われないように、起きたらすぐ食べようと思って。寝相悪くて落ちちゃったのね」
何だか頭痛がしてきた。アジアンは食事にうるさいって先入観は、きみのせいですっかり崩れちゃったよレディー・ベル。
「……飲み物なしだと逆に身体に悪いよ。面倒がらずにちゃんとダイニングでご飯食べようよ」
「あたしは大英帝国ヘゲモニー時代の世界システムの中に生まれた覚えはないわ。アメリカだってヴェトナム戦争でヘゲモニーを喪失したくせに」
いや、訳がわかんないから。
支離滅裂なことを口走るのは、半分頭が寝ている証拠だ。応酬している間にもうとうととまどろむレディーを何とか揺り起こしながら、俺はあれこれと思案した。
多分明日からはここに紅茶かカフェオレのホットマグが置かれてるんだろうなあ、とか、むしろそれじゃあここにテーブルをもう一つ増やした方がいいのかなあ、とか。どうせ部屋は掃除するから、ちょっとくらい食べこぼすのは構わないんだけど、でもこの食生活はどうなんだろう。何も食べないよりはましかなあ。
あ、また寝ちゃう。座り込んだまま重そうに瞼を目の上に落とすレディーを、俺はまたもやゆさゆさと揺する。
「あのさレディー、あんまり押し付けがましいこと言うつもりはないんだけど、でももうちょっと健康考えた方がいいと思うんだよ。別に意地悪で起こそうとしてる訳じゃないんだから、ねえレディー」
顔に落ちた髪の毛の下で、ふと薄目を開けたレディーはこちらをねめつけた。うわぁ、寝起きだけあって物凄く不機嫌。
「そこまでとやかく言われたくないわ。せっかくあんたの言う通りに朝起きてご飯食べてそこまで文句言われるんだったら、もういいわよ。あたし一生起きないから」
――。
あ、ちょっと待ってレディー。こら、毛布引っ張るんじゃない。丸まっちゃ駄目だってば。
思わず腕組みして、俺はベッドの上を見下ろした。完全に拗ねてしまったレディーは、黒髪だけを覗かせて布団の中に潜り込んでしまった。こりゃちょっと機嫌直すの難しそうだなあ……。
仕方なく俺は、フランスパンを片手に拾い上げてベッドを離れた。ドアのところで振り向いたけれど、相変わらず彼女はベッドの中でまんじりともしない。
どうしようもないので、ドアを開け広げたまま俺はダイニングへ足を運ぶことにした。
レディー・ベルがわかって言ってるのかは怪しいけれど、さっきの台詞はさり気なく俺には痛手なんだよなあ。
――あの、騒動の後にレディーは一度目を覚まさなくなった。完全に眠っていたのが(途中でちょっとした突発事項もあるにはあったけど)およそ一年。その後、しょっちゅう放心したり体調を崩したりと不安定な状態だったのがざっと二年。今はようやく落ち着いてきたけれど、それでもあんまり無茶な生活をされていると気が気じゃなかったりする。
寝たきりのレディーの面倒を見るのに他人のままだと都合が悪かったから、あのときは一応俺は彼女を妻にしていたんだけど、彼女が日常生活を送れるようになった段階でそれも必要なくなったんで、今はもう離婚している。そんなことを言ったって別にこれまでと関係が変わる訳じゃないんだけど、さすがに三年世話を焼いた元妻の調子は気になるし、ついあれこれ口出ししてしまう。
「迷惑なのかなぁ」
冷蔵庫の中を改めながら、つい独り言が洩れる。
あんなに壊れそうなレディーの面倒を三年も見ていたら、彼女の挙動が気になって仕方ないのは当然だと思う。あれこれ口が出るのも仕方がないだろう、とついつい自分を弁護したくなる。
レディーはちょっと自分自身に無頓着すぎるんだよ、ホント。俺が勝手にそれを心配してるだけなんだけど、でもその気持ちをちょっとくらいはわかって欲しい。
――あ、バター見つけた。メープルシロップもあるなぁ……よし、バニラアイスも見つけた。
ポテトとベーコンは俺が買い足してたんだっけ。確かあと玉葱が……あったあった。芽が出てるけど、それはまぁいいか。
仕方ない、どうしてもレディーが起きて来ないんだから、強硬手段だ。
おお、やっぱり炒め玉葱はバターに限るね。甘くて香ばしくて、この匂いが堪らないんだよなぁ。
っと、バタートーストそろそろ焼けたかな。ぎりぎりまでこっちはオーブンに入れておかなきゃね。熱々のところにアイスとシロップをかけて、とろとろのさくさくにするのが一番なんだから。
玉葱が飴色になったところで、ブイヨンをどばーっと。ひと煮立ちするまでの間に、フライドポテトとベーコンでサラダをしなきゃ。先に揚げておいたポテトはいい具合に冷めたから、ペッパーとマヨネーズで味を付けて、レタスに載せてカリカリベーコンをまぶすっと。
ポットも温まったから紅茶の葉っぱ入れて、しっかり蒸らして濃い目に出そうかな。アールグレイだからアイスティーにしても美味しいしね。
おっと、オニオンコンソメが出来上がったかな。それじゃさくさくのクルトンいれて、カップに注ぐっと。
うーん、いい匂い。俺って料理の天才。
「……何でそんな、美味しそうな匂いのものばっかり並べてるのよ」
「あ、レディー目が覚めた?」
振り向いたダイニングテーブルには、髪もまだ梳かしていないレディー・ベルがむすっとした顔で座り込んでいた。何でそんな不満そうな顔をしてるのさ。美味しそうだろ?
二人分のカトラリーを並べたテーブルに座り込んで、レディー・ベルはじっとこちらを睨む。そんな彼女の前に、出来上がった分の皿から並べていった。
「はい、ジャーマン風ポテトサラダ。ベーコンが美味そうだろ。それからこっちがオニオンコンソメスープ、ブイヨンはインスタントだけど割と自信作。それとパンがハニー・メープル・トーストのバニラアイス添え。飲み物はカフェオレと紅茶とどっちもできるよ」
「あれだけアールグレイの匂いさせておいて何言うのよ。アイスティーね」
「はいはい」
予め冷凍庫に入れて冷やしておいたアイスグラスに、ポットから紅茶を注ぐ。俺はシロップいらないけど、レディーは滅茶苦茶甘くしないと飲めないはずだ。
ストローを挿してランチョンマットの隅に載せると、改めて俺もテーブルに着いた。さすがの手際だね俺、何分でできたかなこのブランチ。
「あれ、レディー何でそんなに怒ってるの?」
「何であんた怒らないのよ」
真っ直ぐにこっちを睨むレディーの目を眺めながら、ついつい俺は目を細める。ああもう、こういう表情が一番可愛いんだよなレディー。
「何で俺が怒るの? やっぱりご飯は美味しく食べたいじゃないか」
むすっとしたままテーブルに目を落としたレディーは、ふと両手を顔の前で合わせると小さく呟いた。
「頂きます」
「はいはい」
やっぱり、ご飯は誰かと一緒に食べるのが一番だもんね。
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