37 違う | モクジ | 39 苦しい


金の

 這いずるようにして、僕は洗面所の水道に齧り付く。
 腕に力が入らなくて、両腕で蛇口を抱え込み全身を捻るようにして、やっとの思いで水を出した。
 突如響いた高い音が信じられなくて、けれど錆びた銀色の筒からのろのろと溢れてくるのが紛れもなく渇望した水素と酸素の化合物だと悟ると、僕は思わずその透明な細い柱に食らい付いた。
 熱く火照った額や髪の間に、冷たい感触が染み込んでいく。呻き声を洩らす唇の隙間から、透明な液体が流れ込んで喉を潤してゆく。乾ききってひりひりと痛む瞳を、どこか血にも似た金錆の臭いの水がじわじわと冷やしていく。
 項を反らせると、首筋を伝って服の中にまで水が流れ込んでいった。そのままもがくように水の中で顔を揺らし、それから髪の毛の隙間に貯まった水を肌伝いに服の中へ流し込んだ。掌で掬い取ればよかったのかもしれないけれど、もう手足がろくに動かなくて、蛇か虫のようにしか動くことができなかった。
 それでも構わなかった。ずっと飢え乾いていた僕にとって、この汚い床へと流れ落ちる錆びた水は至上のアムリタだった。恥も外聞もなく、僕はこの細い水の糸を全身に浴びていた。
 床中の泥と埃が水で浮かんで僕の肌と髪と服にまとわりついたけれど、そんなものはどうでもよかった。ぼろ布が水を纏って雑巾になったところで、今更頓着する必要などどこにもなかった。
 ふと僕は、ようやく潤い開けられるようになった瞳を押し開く。土と鉄の臭いの水が顔面を流れ落ち、その向こうにぎらぎらと光る銀色の水道が見えた。白っぽい錆が汚す表面に、歪んだ人影が映り込んでいるのが見えた。
 見覚えのない、血色の悪い貧相な少年の顔だった。


 ――お前は、誰?



 冷静に考えれば、全反射をする正面の鏡面に映っているのは僕の姿に他ならない。けれどその人物は、余りにも記憶の中の僕と掛け離れていた。
 試しに僕は、その人影を捉える自分の目を瞬かせてみる。瞼が落ちた瞬間を確かめることはできないけれど、氷のような碧眼に灰色の睫毛が掛かるのは見て取れた。
 これは僕と、同じ瞬間に動いているのだろうか。
 次に、唇を押し開けてみる。紫色を通り越して、蒼色を滲ませた薄い唇は、水を滴らせ震えながらゆっくりと開いた。その間を、粘る唾液が糸を引き、唇の両脇へ引き寄せられるようにして消えた。
 これもきっと、僕と同じ動き。そうわかっていても、まだ信じられなかった。
 そこで僕は、片腕をもたげてみた。きつく金属の枷で縛められていた手首は、汗と鉄気にかぶれて赤く腫れ上がっている。骨の上をなぞるように浮かんだ青黒い痣がゆるゆると仄見え、指が僕の頬から耳の前を掻きむしりながら上へと伝っていく。
 次の瞬間、紫色の爪が僕の髪に触れた。指先に走るちくちくとした感触は、短く刈り上げられた毛先が当たった為のものだ。
 ――かつて身の丈より長かった髪の毛を、ここまで短く切り落としたのは僕自身だった。
 神としての誇りを頂く髪を切り落としたことには、何の悔いもない。こうしなければ彼女を守ることができなかった。そして僕は、彼女を守る為だけにこの地上へと生まれてきた。その揺るぎない自負があるのだから、あの髪の毛を投げ捨てたことには何の後悔もない。
 悔いるのは、彼女をもぎ取られたことだった。正しくは、僕が利用しようとしていた人々の思惑に気付くことができず、彼女から引き離されてしまったということだった。
 僕は、彼女に害を為す村を駆除したかった。そしてその為に利用した人々は、村の持つ財を略奪したかった。利害は一致したはずだった。
 唯一にして最大の誤算は、彼らが求める村の財の中に、僕自身が――神と呼ばれる不可解な猛獣が含まれていたことだった。彼らを利用して村という檻を壊し、人としての生を得るはずだった僕は、彼らによって他に類例のない貴重な検体として捕らえられてしまったのだ。
 珍獣として、新たな科学という名の檻に閉じ込められた僕は、彼女をこの腕から奪い取られた。多分、永遠に。


 訳のわからない薬を毎日何十本と注射された。人に使う手錠や拘束衣を全て壊してしまったので、熊や虎に使う枷と鎖で何重にも縛められた。奇妙な管を幾つも繋がれた挙げ句、気絶するまで電気を流されたりした。
 彼らが僕という存在に対してどのような結論を出したのかはわからない。けれど取り敢えず、彼らが試してみたい実験は一通り終わったらしく、僕はようやく無数の束縛を外された。
 そして押し込まれたのが、この独房だった。断片的に聞こえた話によると、ここは野生の獣を飼育する為の檻としても使用されていたという。文字通り僕はここで、猛獣としての扱いを受けているらしい。
 この水道は、獣たちの飲み水を供給する目的で設置されたものなのだろう。ぼんやりと僕はそんなことを思う。けれどきっと、それを自分で捻った獣は僕が初めてのはずだ。
 僕は再び、銀色の水道管に映った自分の目を瞬かせる。そして短くなった髪の毛に指を這わせ、それを剥がれた爪で掻きむしる。
 ――この色は、何だろう。
 ――この、年老いた老人のようなくすんだ色は、一体何だろう。


 神としての誇りを宿した長い髪に、自負を抱かなかったと言えば嘘になる。何より、この髪の毛を眩しそうに見詰めた彼女の眼差しは今も強く覚えている。
 月のようだ、と彼女は言った。僕の髪の色を、彼女は自分の名前にもなった天体の色に喩えたのだ。
 確かに淡い金の色は、鮮やかな中空の満月にとてもよく似た色をしていた。僕たちにとって特別な意味を持つ天体に似た色を、彼女はとても愛してくれたし、僕もそれを誇らしく思っていた。
 髪を切り落とす瞬間に、躊躇わなかった訳ではない。けれど、髪は放っておけば長く伸びる。切り落としても、時間が経てば必ず元に戻る。そう思って、身の丈ほどの髪を川に捨てた。
 けれど、今錆びた鏡面に映っているのは、月の色とは似ても似つかないくすんだ淡灰色。目が狂ったのかと思って何度瞬いても、水で流しても、腕で擦っても、その色は変わらなかった。
 訳がわからなかった。
 ただ、もう二度とあの月の色は僕の髪には宿らない。そのことだけは、なぜかわかった。何の根拠もなかったけれど、確かな絶望として僕の脳裏に宿っていた。
 「あ……」
 僕は思わず声を漏らす。枯れた、獣の唸り声に似た声が僕の鼓膜を震わせた。
 何か言葉を発音しようと思った。けれど、この思いを形容できる言葉は、僕が今までに経験してきた中からは見つけることができなかった。
 だから僕は、言葉にならない声を漏らした。
 「ああ、あ、あああああああ」
 獣のような声だ、と自分でも思った。それでも構わない、と思った。
 僕は月の色を失った。僕は神としての資質を失った。
 猛り狂うこの醜い生き物は、もはや神ではなくなった。
 獣だ。僕はもう、醜い一匹の猛獣になってしまったのだ。
 「あああ、あああああああああああああああああああ」
 もう二度と、僕は神には戻れない。
 僕はもう、彼女の神ではない。
 ――僕はただ、鏡面に映った自分の姿に向かって、吼えた。
 この忌まわしい、醜く愚かな一匹の獣に向かって、咆吼した。



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